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アルグン(Arγun, Arghun 1258年? - 1291年3月10日〔ドーソン『モンゴル帝国史 5』、239頁〕)は、イルハン朝の第4代君主(ハン、在位1284年8月11日 - 1291年3月10日)。 第2代君主・アバカの長男。アバカの側室の一人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)の息子。第5代君主・ゲイハトゥの異母兄で、第7代君主・ガザン・ハン、第8代君主・オルジェイトゥの父。『元史』の漢字表記では阿魯渾大王、『集史』などのペルシア語表記では ارغون خان Arghāūn khān と書かれる。 == 生涯 == === 継承争い === 父・アバカ没後のクリルタイで、後継を巡って叔父であるテグデル(フレグの7男)、モンケ・テムル(フレグの11男。フレグとアバカの正妃オルジェイ・ハトゥンの息子)らを推すグループと対立した。モンケ・テムルがアバカの死から25日後の1282年4月26日にモースルで急死すると〔ドーソン『モンゴル帝国史 5』、119頁〕、テグデルの母クトイ・ハトゥンとモンケ・テムルの母オルジェイ・ハトゥンの両名は、アバカ一統が推すアルグンを後援した。しかし、他のフレグ家の王族たちや部将たちの多くがテグデルを推し、また、「ヤサ」の規定に従い君主位の継承は宗族の年長者によるべきであるという意見もはなはだ根強かった〔ドーソン『モンゴル帝国史 5』、131頁〕。このため、モンケ・テムルの死の10日後にあたる1282年5月6日にクリルタイの全会一致をもってテグデルが即位することとなった。 しかし、テグデル推戴後もアルグンは弟のゲイハトゥや従兄弟のバイドゥらとともにたびたび叛乱を起こし、一度ならずテグデル側に捕縛されたが、ついには逆にテグデルを捕らえた。この争乱の最中にアルグンを擁護していた叔父のコンクルタイ(フレグの9男)をテグデルが処刑し、これを恨んだ生母アジャジュ・エゲチらコンクルタイ家の人々が復讐としてテグデルを処刑するよう迫り、結局テグデルは1284年8月10日に処刑された。 アルグンは一時離反した叔父のフラチュ(フレグの12男)と和解すると、ゲイハトゥらの推戴を受けて、マラーガ近傍のハシュトルード川とクルバーン・シラとの間にあったカムシウンという夏営地においてクリルタイを開催し、1284年8月11日に即位した〔ドーソン『モンゴル帝国史 5』、189-190頁〕。 1286年2月24日(諸説あり)、モンゴル皇帝(カアン)クビライから勅書を奉じた使者が来訪し、アルグンにハンの称号を与え、アルグンの君主位継承が追認された〔ドーソン『モンゴル帝国史 5』、199-200頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルグン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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