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アルコ写真工業 : ミニ英和和英辞書
アルコ写真工業[あるこしゃしんこうぎょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しゃ]
 【名詞】 1. photograph 2. copy 3. transcribe 4. duplicate 5. reproduce 6. trace 7. describe 8. picture 
写真 : [しゃしん]
 【名詞】 1. photograph 
: [まこと, しん, ま]
  1. (adj-na,n) (1) truth 2. reality 3. genuineness
: [たくみ]
  1. (n,adj-na) (1) workman 2. artisan 3. mechanic 4. carpenter 5. (2) craft 6. skill 7. (3) means 8. idea
工業 : [こうぎょう]
 【名詞】 1. (manufacturing) industry 
: [ごう, わざ]
 【名詞】 1. deed 2. act 3. work 4. performance

アルコ写真工業 : ウィキペディア日本語版
アルコ写真工業[あるこしゃしんこうぎょう]
アルコ写真工業は日本の東京にあったカメラメーカー・レンズメーカーである。
== 概要・歴史 ==
東京の芝に産まれた創業者の加藤繁は小学校6年生からヴェスト・ポケット・コダックを使い中学時代には写真部を起こし、東京写真研究会のメンバーになるなど写真が好きであった。高等拓殖学校を卒業後ブラジルで3年間を過ごした後、第二次世界大戦中は軍需省の仕事で陸軍の自動車の修理をしていた。この時に加藤が親分肌で先見性に富んでいることを知った部下は加藤を見込んで、戦後仕事のない時代に入れ替わり立ち替わりやって来たという。加藤は資源を使わずドルを稼ぐには光学機械が一番適していると判断した〔『クラシックカメラ専科No.16、コンパクトカメラ』p.94。〕。
まず生活費を稼ぐためと機械製造の足がかりとして、元部下の浅見勝蔵と共同で1946年5月にアサカ精工を立ち上げ、機械工具の販売を始めた。次に金属モールドやダイキャストの製法を知るため、35mmゲージで国電の鉄道模型を可動台車で製造し、それまでの固定台車に比して格段に脱線が少なかったことから好評を得て、目黒田道橋(現目黒区目黒一丁目)に小さな家を買い、そこを工場とした〔。
写真関連で最初に作ったのは三脚で、まずは三脚そのものの構造を知るためベル&ハウエルのコピー品を製造し、品不足に悩む写真業界から好評で迎えられた〔。田道橋の工場は売却して大田区雪ヶ谷にあった岸製作所という工場を買収し、1949年7月にアルコ写真工業株式会社に改組した〔『クラシックカメラ専科No.16、コンパクトカメラ』p.95。〕。アルコとは、ポルトガル語で「」の意である。この後は当時の日本製品では珍しくコピー品でなく独創性で勝負して行くようになる。橋田幸治はフリーストップ三脚を設計し、1/100mmの精度を持つパイプの入手に苦労しながら製造し、当時としては5,800円の高価格で売り出された。少し重いながらも非常な好評であり、この後同種の製品が定番になった〔。
次はレンズ研磨設備を入れてフィルターを売り出した。また距離計、接写装置「アプロー」など各種の写真関連製品を手がけた〔。
アサカ精工時代の1946年に入社させていた阿部正雄に1947年カメラの試作を命じ、レンズ交換式、マガジン交換式、フォーカルプレーンシャッターの6×6cm判一眼レフカメラの開発を始め1950年には金属幕のフォーカルプレーンシャッターで特許を取得したが、1951年ハッセルブラッドハッセルブラッド1600Fを発売、夏に浅沼商会の応接室で現物を検討した結果開発を棚上げすることとした。1951年の秋には阿部に35mmコンパクトカメラの開発が命じられた。この時の内容は「レンズは非交換」「35cmまでの接写ができること、そのために蛇腹を使うこと」「両手で構えた時全ての操作ができること」「オリジナルであること」であった。特に最後の指示は徹底しており、設計のために他のカメラを見ることを禁じられたという〔『クラシックカメラ専科No.16、コンパクトカメラ』p.96。〕。
1952年秋にはアルコ35の設計試作が完了し、写真雑誌の誌面を賑わせるようになった〔。1952年11月に量産を始め、そのユニークな機能で人気を呼び高価格にも関わらずよく売れた〔『クラシックカメラ専科No.16、コンパクトカメラ』p.97。〕。1954年にはアルコ35にセットすると二眼レフカメラになり、パララックス自動補正、被写界深度も確認できるようになる〔『クラシックカメラ倶楽部』p.36。〕アクセサリービューアルコが発売され、これも高価格ながらよく売れた〔。
輸出商社からの進めもあって1955年に加藤繁が市場調査のためアメリカ合衆国アルコ35を持参した際、ニューヨークで商社の駐在員からボルシーアメリカジャック・ボゴポルスキーを紹介されて見せたところ非常に興味を持ち、「自分の会社で販売したい」「アイデアを送るから製品化して欲しい」という話になった。帰国してから何台かサンプルを送りイメージスケッチが送られて来たが、アイデアを具体化しようとすると全くまとまりがないことが分かって来た。ボルシーでアルコ35を売る話も具体化せず、そうこうしているうちに音信が途絶えてしまったが、この顛末は「米国が技術を買いにきた日本の独創カメラ」と広告に使われた〔『クラシックカメラ専科No.16、コンパクトカメラ』p.99。〕。
アメリカの市場を見てデジュア8という8mmカメラを購入して来た加藤繁は8mmカメラに転進することを決め、国産初の3本ターレット、シャッター開角度機構を備えたアルコエイト1956年に発売した〔。その後半年に1機種のサイクルで新型を出したが、1960年末に会社更生法の手続きをし、1961年1月再建は難しいと判断され、廃業した〔『クラシックカメラ専科No.16、コンパクトカメラ』p.102。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルコ写真工業」の詳細全文を読む




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