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アルシノエ1世( 紀元前305年〔Ptolemaic Genealogy: Arsinoe I, Footnote 4 〕 - およそ紀元前248年以降〔Ptolemaic Genealogy: Arsinoe I, Footnote 10 〕)はプトレマイオス朝エジプトの王妃・女王(ファラオ・共同統治者)である。 == 経歴 == マケドニア人とテッサリア人を祖にもつギリシア人であり、トラキア、小アジア、マケドニアの王であったディアドコイのリュシマコスと、その最初の妻である王妃の次女として生まれた〔Bengtson, ''Griechische Geschichte von den Anfängen bis in die römische Kaiserzeit'', p.569〕〔。彼女には二人の兄姉がおり、兄を、姉をエウリュディケ (en) と言った〔〔Heckel, ''Who’s who in the age of Alexander the Great: prosopography of Alexander’s empire'', p.175〕。 父方の祖父はマケドニア王ピリッポス2世と同時代人の貴族であるペラのアガトクレスで〔Lysimachus’ article at Livius.org 〕、母方の祖父は権勢を誇った摂政のアンティパトロスである〔Lightman, ''A to Z of ancient Greek and Roman women'', p.233〕。アルシノエという名は祖母にちなんでつけられたものであるが〔Ptolemaic Genealogy: Arsinoe I, Footnote 3 〕、父方・母方双方とも祖母の名前は伝わっていない〔。またアルシノエ1世の結婚以前についてもほとんど知られていない。 紀元前289年から紀元前281年ごろに〔Lightman, ''A to Z of ancient Greek and Roman women'', p.43〕〔Ptolemaic Genealogy: Arsinoe I 〕、アルシノエ1世はプトレマイオス朝ギリシアのファラオ、プトレマイオス2世ピラデルポスの最初の妻となった。この結婚は母方の遠い親戚に嫁ぐものであり、さらにはセレウコス1世に対抗するため父親とプトレマイオス2世が結んだ同盟の延長、つまり政略結婚でもあった〔Britannica Online Encyclopedia – Arsinoe I 〕。 アルシノエ1世はこの結婚を通じてプトレマイオス朝の女王となり、プトレマイオス2世との間に3人の子をもうけている。息子のプトレマイオス3世エウエルゲテスと、娘のベレニケ (en) である〔Ptolemaic Genealogy: Arsinoe I, Footnote 7 〕。時期は定かではないものの紀元前279年から紀元前273年頃に、夫プトレマイオス2世の姉アルシノエ2世がエジプトに帰国した。彼女は父リュシマコス王の最後の妻であり、リュシマコスと死別後に再婚した異母兄弟の夫プトレマイオス・ケラウノスと対立し逃れてきたのであった。ほどなくして、おそらくはこのアルシノエ2世の扇動で、プトレマイオス2世の暗殺を企てたとしてアルシノエ1世が咎め立てられた〔〔。 プトレマイオス2世はアルシノエ1世が謀ったものとして罪した。そのまま離婚が決まり、アルシノエ1世は南エジプトのコプトスへ追放された〔の手によるものであろう、同時に彼はアルシノエ1世に追放されたのだとされている。彼はアルシノエ1世を「王の妻」と呼んでいるが、その名はエジプトの女王の常であるように王家のカルトゥーシュで囲まれてはいない〔。他にアルシノエ1世につながる断片的な現存する資料として、キプロスのラピトスにあるフェニキア語の碑文がある〔Ptolemaic Genealogy: Arsinoe I, Footnote 9 〕。こちらは年代としては、プトレマイオスの治世が始まって11年か12年目にあたるものである。これは「正当なる相続者とその妻」のために設けられた供犠について述べており、ここからアルシノエ1世のことだとされた。アルシノエ1世が裏切り者として貶められていた一方で、そのために生け贄を捧げた人物がいたという事実は、その知らせがまだこの地に届いていなかったことをよく示している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルシノエ1世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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