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アルシノエ2世 : ウィキペディア日本語版
アルシノエ2世[あるしのえ2せい]

アルシノエ2世(, 紀元前316年 - 紀元前270年7月から紀元前260年没)は、プトレマイオス朝エジプトの女王である。リュシマコス王との結婚によりその妻としてトラキア小アジア、マケドニアの女王となり、後に弟であり夫ともなったプトレマイオス2世とともにエジプトを治めた。その意見は力を持ち、クレオパトラの先駆とも称される。
==略歴==
ヘレニズム国家をエジプトに興したプトレマイオス1世ソーテール' は「守護者プトレマイオス」の意)とその2番目の妻ベレニケ1世との間に長女として生まれた 。
アルシノエ2世は15歳のときにリュシマコスと結婚し、3人の子をもうけた。その名は〔Billows, ''Kings and colonists: aspects of Macedonian imperialism'', p.110〕〔Bengtson, ''Griechische Geschichte von den Anfängen bis in die römische Kaiserzeit'', p.569〕〔Ptolemaic Genealogy: Ptolemy ‘the Son’, Footnotes 9 & 12 〕、リュシマコス〔、ピリッポス〔と伝わる。息子たちを玉座に座らせるために、アルシノエ2世は反逆を企てたかどで夫の長子にを飲ませ処刑した。
リュシマコスが紀元前281年の戦い(コルペディオンの戦い)で亡くなると、急ぎカッサンドレイアへ向かい、異母兄弟であるプトレマイオス・ケラウノスと再婚した。2番目の夫は、プトレマイオス1世とその前妻の子供の一人だった。この結婚には2人がマケドニアとトラキアの覇権を争っていたという政治的な背景がある(生前のリュシマコスは両地を支配し、その権勢は南ギリシアと小アジアにも及んでいた)。2人の関係は長続きしなかった。プトレマイオス・ケラウノスがさらに力をつけはじめると、アルシノエ2世はその勢いを抑え、前夫との息子たちとともに夫に反旗を翻す時期だと判断した。しかし陰謀は露見する。プトレマイオス・ケラウノスはアルシノエ2世の2人の息子リュシマコスとピリッポスを殺害するが、長男のプトレマイオスは北へ脱出し、ダルダニア人の王国に逃れた。当のアルシノエ2世も弟プトレマイオス2世の庇護を求め、エジプトのアレクサンドリアへ逃れた。
エジプトでもアルシノエ2世は術策を巡らせ、弟を唆してプトレマイオス2世の最初の妻であるアルシノエ1世に夫の暗殺疑惑の濡れ衣を着せて離婚させ、南エジプトに追放させた。そしてアルシノエ2世が自分の同母弟の妻となった。かくて2人を形容して「兄弟姉妹を愛する者達」(、)〔プトレマイオス2世には、プトレマイオス2世ピラデルポスの異名があるが、ギリシャ名のみで正式な名前ではない。〕という言葉が、おそらくは憤慨したギリシア人により与えられた。アルシノエ2世は弟のもつ肩書き全てを自らも名乗り、女王に捧げられた街や崇拝者、その肖像を象った貨幣ができるなど、強い影響力をもった。外交政策にも深く関わったとみえて、それは中東でセレウコス朝と対峙した第一次シリア戦争(紀元前274-271年)でのプトレマイオス2世ピラデルポスの勝利にもつながった。女王の死後もプトレマイオス2世は公文書でたびたびその名に触れており、貨幣や礼拝もかつてのままにさせ、さらにアルシノエ2世を女神として崇めさせた。それはそのまま自らの神格化につながったのである。 は「守護者プトレマイオス」の意)とその2番目の妻ベレニケ1世との間に長女として生まれた 。
アルシノエ2世は15歳のときにリュシマコスと結婚し、3人の子をもうけた。その名は〔Billows, ''Kings and colonists: aspects of Macedonian imperialism'', p.110〕〔Bengtson, ''Griechische Geschichte von den Anfängen bis in die römische Kaiserzeit'', p.569〕〔Ptolemaic Genealogy: Ptolemy ‘the Son’, Footnotes 9 & 12 〕、リュシマコス〔、ピリッポス〔と伝わる。息子たちを玉座に座らせるために、アルシノエ2世は反逆を企てたかどで夫の長子にを飲ませ処刑した。
リュシマコスが紀元前281年の戦い(コルペディオンの戦い)で亡くなると、急ぎカッサンドレイアへ向かい、異母兄弟であるプトレマイオス・ケラウノスと再婚した。2番目の夫は、プトレマイオス1世とその前妻の子供の一人だった。この結婚には2人がマケドニアとトラキアの覇権を争っていたという政治的な背景がある(生前のリュシマコスは両地を支配し、その権勢は南ギリシアと小アジアにも及んでいた)。2人の関係は長続きしなかった。プトレマイオス・ケラウノスがさらに力をつけはじめると、アルシノエ2世はその勢いを抑え、前夫との息子たちとともに夫に反旗を翻す時期だと判断した。しかし陰謀は露見する。プトレマイオス・ケラウノスはアルシノエ2世の2人の息子リュシマコスとピリッポスを殺害するが、長男のプトレマイオスは北へ脱出し、ダルダニア人の王国に逃れた。当のアルシノエ2世も弟プトレマイオス2世の庇護を求め、エジプトのアレクサンドリアへ逃れた。
エジプトでもアルシノエ2世は術策を巡らせ、弟を唆してプトレマイオス2世の最初の妻であるアルシノエ1世に夫の暗殺疑惑の濡れ衣を着せて離婚させ、南エジプトに追放させた。そしてアルシノエ2世が自分の同母弟の妻となった。かくて2人を形容して「兄弟姉妹を愛する者達」(、)〔プトレマイオス2世には、プトレマイオス2世ピラデルポスの異名があるが、ギリシャ名のみで正式な名前ではない。〕という言葉が、おそらくは憤慨したギリシア人により与えられた。アルシノエ2世は弟のもつ肩書き全てを自らも名乗り、女王に捧げられた街や崇拝者、その肖像を象った貨幣ができるなど、強い影響力をもった。外交政策にも深く関わったとみえて、それは中東でセレウコス朝と対峙した第一次シリア戦争(紀元前274-271年)でのプトレマイオス2世ピラデルポスの勝利にもつながった。女王の死後もプトレマイオス2世は公文書でたびたびその名に触れており、貨幣や礼拝もかつてのままにさせ、さらにアルシノエ2世を女神として崇めさせた。それはそのまま自らの神格化につながったのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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