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アルジャーノン・スウィンバーン : ミニ英和和英辞書
アルジャーノン・スウィンバーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジャー : [じゃー]
 【名詞】 1. jar 2. (n) jar
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アルジャーノン・スウィンバーン ( リダイレクト:アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン ) : ウィキペディア日本語版
アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン[ちょうおん]

アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンAlgernon Charles Swinburne, 1837年4月5日1909年4月10日)は、ヴィクトリア朝イングランドイギリス)の詩人。スウィンバーンの詩は、その中に、SM死の衝動レズビアン無宗教といったテーマが繰り返し出てくるため、発表当時はかなり物議をかもした。
小説「アルジャーノンに花束を」に登場するハツカネズミの名前は彼にちなんで付けられたもの。
==生涯==
スウィンバーンは、チャールズ・ヘンリー・スウィンバーン海軍大佐(後に海軍大将)とアッシュバーナム伯爵(:en:George Ashburnham, 3rd Earl of Ashburnham)令嬢、レディ・ジェイン・ヘンリエッタの間の6人の子供の第一子として、1837年4月5日、ロンドンのグローヴナー・プレイスのチェスター通り7で生まれた。幕末日本に赴任したイギリス外交官アルジャーノン・ミットフォードは、母方の従兄弟にあたる。
ワイト島のEast Dene近郊で育ち、1849年から1853年にかけてイートン・カレッジで学んだ。そこではじめて詩を書きはじめ、それから1856年から1860年にかけて、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに進んだが、この時、1859年から1860年5月まで短い停学処分を受けている。
スウィンバーンは夏期休暇をノーサンバーランドの祖父の家(:en:Capheaton Hall)で過ごした。祖父ジョン・スウィンバーン卿(1762年 - 1860年)は有名な図書館を所有し、ニューカッスル・アポン・タインの文学・哲学協会の会長であった。スウィンバーンはノーサンバーランドが自分の生まれ故郷だと考え、忘れ難い思いは激しい愛国心に満ちた『Northumberland』や『Grace Darling』などの詩に反映されている。彼はポニーに跨がり「北方の国境の美しい一帯を通り抜けて」荒野の全域で乗馬を楽しんだ(彼は、剛胆な騎手であった)。彼はそれをスコットランドの国境とは決して呼ばなかった。
1857年から60年にかけて、スウィンバーンはウォーリントンホールのポーリーン・トレヴェリアン夫人の知的なサークルに参加し、1860年の祖父の死後はニューカッスルのウィリアム・ベル・スコット(1811年9月12日 – 1890年11月22日、イギリスの詩人・画家)の家に滞在した。1862年12月、スウィンバーンはベル・スコットと彼の客人(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティもいたと思われる)に同行し、タインマスを旅行した。スコットは回顧録に、一行が海辺を歩いていた時、スウィンバーンが妙なイントネーションで未発表であった『プロセルピナ讃歌』と『Laus Veneris』を朗読し、その間、波が「カラコーツの長い砂浜の全てに及び、はるか彼方の喝采のように聞こえた」と書いている。
大学でスウィンバーンはラファエル前派に関係し、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとは親友だった。卒業後、スウィンバーンはロンドンに住み、積極的に執筆活動を始めた。
スウィンバーンの詩には以下のようなものがある。
*カリドンのアタランタ(カリュドンのアタランタ、Atalanta in Calydon、1865年)
*詩とバラード第1集(Poems and Ballads I、1866年)
*日の出前の歌(:en:Songs before Sunrise、1871年)
*詩とバラード第2集(Poems and Ballads II、1878年)
*トリストラム・オブ・ライオネス(Tristram of Lyonesse、1882年)
*詩とバラード第3集(Poems and Ballads III、1889年)
他に、死後に出版された小説『レズビア・ブランドン(Lesbia Brandon)』もある。
『詩とバラード第1集』は初版発表時にセンセーションを巻き起こした。とくに問題となったのが、『Anactoria』や『Sapphics』といったサッポーへのオマージュとして書かれた詩だった。一方、『The Leper』、『Laus Veneris』、『St Dorothy』といった詩は、形式、口調、構成が明らかに中世風で、ヴィクトリア朝の魅力を表現した。この本には他にも、『プロセルピナ讃歌』(:en:Hymn to Proserpine)、『時の勝利』(:en:The Triumph of Time)、『ドロレス』(:en:Dolores (Notre-Dame des Sept Douleurs))という詩が含まれている。
スウィンバーンはフランスの詩形ロンドー(Rondeau)の変化形である、ロンドー体(ロンデル、ラウンデル)を考案した。その形式で書かれた詩のいくつかはクリスティーナ・ロセッティに捧げた『A Century of Roundels』の中にある。スウィンバーンは1883年エドワード・バーン=ジョーンズにこう書き送っている。「私はある形式ですべての韻律を使ったささやかな歌(songs)、いえ小歌(songlets)の新しい本を書き……ちょうど出版したところです。その本の献呈をミス・ロセッティも受諾してくれました。私はあなたとジョージー〔 Georgianaの愛称。バーン=ジョーンズの妻で、マクドナルド姉妹(:en:MacDonald sisters, daughters of George Browne MacDonald)の1人。〕が、100ある9行詩の中にお気に入りのものを見つけられることを望みます。ちなみに、そのうち24の詩は赤ちゃんや小さな子供たちについて書いたものです」。それらの詩に対する評価は、魅力的で素晴らしいと絶賛する人から、単に賢いだけで不自然だという批判する人までさまざまだった。ちなみに、『A Baby's Death』という詩には、イギリスの作曲家サー・エドワード・エルガーが曲をつけた(1897年)。
スウィンバーンはアルコール使用障害で、SM趣味で、非常に激しやすい性格だった。それがたたってスウィンバーンの健康は損なわれ、1879年、42歳の時、精神的にも肉体的にも衰弱し、友人のセオドア・ワッツ=ダントン(:en:Theodore Watts-Dunton)の世話で、プットニー(:en: Putney)のNo. 2 The Pinesで残りの人生を送ることになった。以降のスウィンバーンは若い頃の反抗精神を失って、社会からも尊敬される人物となった。1909年4月10日、72歳でスウィンバーンは亡くなり、ワイト島のBonchurch(:en:Bonchurch)に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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