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アルゼンチン・アポロ(Argentina Apollo、本名:Vincente Denigris、1943年 - 1984年8月2日)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身のプロレスラー。 アメリカでは、ビットリオ・アポロ(Vittorio Apollo)のリングネームでも著名。同郷の先輩アントニオ・ロッカと同様、アクロバチックなファイトを売り物とする素足のベビーフェイスとして活躍した。 == 来歴 == 地元ブエノスアイレスの体育専門高校で体操競技を専攻し、オリンピックを目指したこともあったが、故郷の英雄アントニオ・ロッカに憧れ1958年にプロレス入り〔〔。 ロサンゼルス地区を経て、1960年代はニューヨークのWWWFで活躍。ブルーノ・サンマルチノをはじめエドワード・カーペンティアやボボ・ブラジルなどスター選手のパートナーに起用され、スカル・マーフィー&ブルート・バーナードやファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ロイ・ヘファーナン)と対戦。1961年と1962年には、アメリカ武者修行時代のジャイアント馬場ともワシントンD.C.などで対戦した。 1962年11月14日にはオハイオ州トレドにてバディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。1964年2月にはドン・マックラリティと組んでクリス・トロス&ジョン・トロスからWWWF・USタッグ王座を奪取。以降、ジェリー・グラハム&エディ・グラハムと抗争を展開した。 NWA圏では1970年4月20日、ホセ・ロザリオと組んでNWAフロリダ・タッグ王座を獲得、ダスティ・ローデス&ディック・マードックのテキサス・アウトローズともタイトルを争った。フロリダでは5月20日にマイアミビーチにてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。9月にはマサ斎藤とのシングルマッチも度々行われた。 以降、ミッドアトランティックやジョージアなど南部地区での活動を経て、1975年には北東部で旗揚げされた独立団体IWA(インター・ナショナル・レスリング・アソシエーション)に参戦〔。ルイス・マルティネスとのコンビでジート&ボロのザ・モンゴルズと抗争し、元WWWF世界ヘビー級王者のイワン・コロフとも対戦した。 日本には1973年1月、ドン・レオ・ジョナサンやウイルバー・スナイダー、ゴードン・ネルソンなどと共に全日本プロレスに参戦〔。翌1974年3月にはテキサス・マッケンジー、ザ・ブルート、ジム・ブランゼル、セーラー・ホワイトらと共に国際プロレスに来日している〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史 (6) プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P170(1986年、ベースボール・マガジン社)〕。 1984年8月2日、41歳で死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルゼンチン・アポロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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