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アルトマルク号事件(アルトマルクごうじけん、、、)は、第二次世界大戦中の1940年2月16日、当時中立だったノルウェーの領海を舞台にイギリスとナチス・ドイツの間で発生した軍事衝突。イギリス海軍によって行われた大掛かりな移乗攻撃の最後のものである〔BBC Home. The Last Boarding Action of the Royal Navyby WatTyler〕。 == 経緯 == 1940年2月に、ドイツのタンカーアルトマルクは、299名の捕虜と共にドイツに戻りつつあった〔"The Rule of Law in International Affairs" (Brian Simpson 2003), page 215 〕。船上の捕虜は、ドイッチュラント級装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーの通商破壊活動によって沈められた商船から収容されたイギリスの船員だった。南大西洋からドイツに帰る途中、アルトマルクはノルウェーの領海を通過した。ノルウェー官憲による調査は2月15日に3回にわたって行われた。 ノルウェーの士官は船に乗り込んでおおまかな捜索を行い、ドイツの乗員は同船が全く商業的な目的で運行していると約束した。最初の調査は水雷艇TryggによってLinesøy島沖で行われ、次にソグネフィヨルドで水雷艇Snøggにより、そして最後はHjeltefjordにおいてカルステン・タンク=ニールセン提督と駆逐艦ガルムによって非公式に行われた。3回目の調査の後、アルトマルクは魚雷艇SkarvとKjell、および巡視艇Firernの護衛によって南方へ誘導された。伝えられるところでは、イギリスの捕虜は船倉に閉じ込められていたが、大声で叫んだり船の側壁を叩いたり、懸命に合図を送ろうとしたので、ドイツの乗組員はウインチを動かすことなどによってその音をかき消さなければならなかったという。しかしノルウェーの捜索隊は船倉まで調べに入ることはなく、船はそのまま通航を許された。 アルトマルクは同じ日、エーゲルスンでイギリス空軍機に発見され、直ちに海軍に通報された。駆逐艦コサック(艦長)によって阻止されそうになったアルトマルクは、に避難した。しかしコサックはその翌日にその後を追い、接舷を強要した。イギリス側は2月16日22時20分にアルトマルクに乗り込み、銃剣による白兵戦の末、乗組員を圧倒して捕虜を解放した。コサックは、2月17日の真夜中過ぎにイェッシングフィヨルドを退去した。 ノルウェーの護衛艦は抗議したが、介入はしなかった。ノルウェー政府によって後に出された公式見解は、国際条約によれば、中立国は圧倒的に優勢な力に対する抵抗の義務は負っていないというものだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルトマルク号事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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