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アルバニア・ヴェネタ ()は、1420年から1797年まで存在した南ダルマチアのヴェネツィア共和国領。最初は、現在の北アルバニアとモンテネグロのアドリア海沿岸のことを指した。しかしアルバニアと南モンテネグロは1571年にオスマン帝国に奪われた。 ==名称と地理== アルバニア・ヴェネタのヴェネタとは、コソヴォから南アルバニアまで広がるオスマン帝国領アルバニア(Albania Ottonia、アルバニア・オットニア)と区別するために「ヴェネツィア領」であることを示すため用いられた〔Paulucci, Luigi. ''Le Bocche di Cattaro nel 1810''. pag. 24〕。 これらのヴェネツィア領はラグーサ共和国(現在のドゥブロヴニク)の南部国境からアルバニア沿岸の町ドゥラッツォ(Durazzo、現在のドゥラス)まで伸びていた。ヴェネツィア領は、アドリア海から20km以上内陸へ到達することはなかった。1573年以後、アルバニア・ヴェネタの南限はブドゥア(Budua、現在のブドヴァ)近郊の村コンフィン(現在のクフィン)へ移った。オスマン帝国がアンティヴァーリ(Antivari、現在のバール)、ドゥルチーニョ(Dulcigno、現在のウルツィニ)を征服したためだった。 ヴェネツィアの領土はカッターロ(Cattaro、現在のコトル)、リサーノ(Risano、現在のリサン)、ペラスト (Perasto)、ティヴァト、ヘルツェグ・ノヴィ、ブドヴァ、ストモーレを含むコトル湾周辺に集中していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルバニア・ヴェネタ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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