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アルバート・キング : ミニ英和和英辞書
アルバート・キング[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アルバート・キング : ウィキペディア日本語版
アルバート・キング[ちょうおん]

アルバート・キング(Albert King, 1923年4月25日 - 1992年12月21日)はアメリカ合衆国ミシシッピ州インディアノーラ出身のブルースギタリストシンガー。本名はアルバート・ネルソン。B.B.キングフレディー・キングと並び、ブルース・ギタリストの3大キングと称される。(血縁関係はない)
チョーキングを多用したシンプルかつ豪快なプレイは、ブルース界のみならず、エリック・クラプトンジミ・ヘンドリックスロックギタリストにも多大な影響を与えた。
左利きの彼は、右利き用に弦を張ったギターを逆に持って弾いていた。さらにチョーキングをしやすいように弦は低め張りかつチューニングは変則的。彼の独創的なギター・プレイの秘訣はこのような設定にもあったと言えるだろう。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第13位に選ばれている。
==来歴==
5歳の頃、離婚した母親と共にアーカンソー州フォレストシティに移住。綿花畑で働きながら、独学でギターを習得した。ブラインド・レモン・ジェファーソンなどに感銘を受けた彼は、ブルースをプレイするようになる。
アルバートが本格的に音楽活動するきっかけとなったのは、1950年。オセオラという街でT-99クラブを経営するM.C.リーダーという男に出会った時だった。アルバートはオセオラに移住し、このクラブのレギュラー・バンド、イン・ザ・グルーヴ・ボーイズのメンバーとなった。このバンドはT-99クラブ以外にもギグをこなし、またラジオ番組のショーでもプレイしていたという。
オセオラで数年活動した後、アルバートはインディアナ州ゲイリーに拠点を移し、ジミー・リードジョン・ブリムらと活動するようになった。リードとブリムがギタリストであったため、アルバートはこのときはドラムスを叩いていた。この頃のリードのレコードでも彼はドラマーとして参加している。彼がアルバート・キングという芸名を名乗るようになったのはこの頃である。"Three o' Clock Blues"をヒットさせたB.B.キングの成功にあやかってのことであった。
自己名義の初レコーディングは、1953年11月、パロット・レーベルでのセッションだった。ゲイリーに移住して間もなく、アルバートはウィリー・ディクソンと出会い、彼の口利きによって同レーベルでのレコーディングの機会を得たのだった。しかし、ここでは1回のセッションで5曲をレコーディングだけに終わった。(うち3曲がチェスのアルバム「Door To Door」収録)まだ、このレコーディングには後にみせる強烈な個性は殆ど窺い知ることができない。当時リリースされたのは、シングル"Be on Your Merry Way" / "Bad Luck Blues" の1枚のみ。翌年にはオセオラに戻り、再びイン・ザ・グルーヴ・ボーイズでの活動を再開した。
オセオラでの2年間の活動の後、アルバートが向かったのはセントルイス。彼のトレードマークとなるフライングVギター、ルーシーをプレイするようになったのはセントルイス時代だった。この地で活躍して人気を獲得した彼は1959年、地元のボビン・レーベルと契約。ここでの彼のサウンドはジャンプ・ブルースっぽいが、ギターもヴォーカルも彼らしい個性が花開いてきている。3年間で同レーベルからが8枚のシングルをリリース。中でも1961年の"Don't Throw Your Love on Me So Strong"は、R&Bチャート14位という大ヒットを記録した。
1963年にはキング、1964年にはカントリー(Coun-tree)へレコーディングを残しているが、いずれも単発的なもの。そして1966年、かの有名なスタックス・レコードと契約し、アルバートの黄金期が訪れる。スタックスではブッカー・T&ザ・MG'sがバックを付け、ファンキーでソウルフルな新たな境地と言うべきサウンドを切り開いた。初期からいきなり"Crosscut Saw" (1967)、"Born Under A Bad Sign" (同)(クリームのカヴァーでも有名)などが生まれ、複数の曲がヒットチャートに登場した。これらの曲を収録したスタックス1枚目のアルバム「Born Under A Bad Sign」を1968年にリリース。スタックスでの成功からアルバートはフィルモア・ウェストにも出演するようになった。1968年夏のフィルモアでの演奏はライブ盤「Live Wire/Blues Power」としてリリースされた。
1970年代に入っても、アルバートは引き続き快調なペースで活動を続ける。1971年、アルバム「Lovejoy」をリリース。同作ではローリング・ストーンズの"Honky Tonk Women"を完全に自分の音に料理して見せるなど、より幅広い音楽性をみせるようになっていた。ギター・プレイのフレーズ数は決して多くない彼だが、意外にも新しいサウンドを消化する力には長けていた。1972年に、アルバム「I'll Play the Blues for You」をリリース、タイトル曲は彼の代表曲のひとつとなった。同年8月20日ワッツ暴動の7周年を記念してロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたコンサート「ワッツタックス」に出演。その様子はメル・スチュワート監督の手により、翌1973年、ドキュメンタリー映画となった。
1975年にスタックスが倒産。アルバートはユートピアへ移籍し、同レーベルとトマトから作品を発表し続ける。アラン・トゥーサンらを迎えてニューオーリンズで録音した「New Orleans Heat」など、新たな試みも生まれている。1978年にはB.B.キングとのジョイントで初来日。彼は1989年にもB.B.キングとともに再来日を果たしている。
1980年代に入るとアルバートは、ファンタジー・レコードと契約し、2枚のアルバムをリリースする。いずれも快作で、特に2枚目のタイトル曲"I'm In a Phone Booth Baby"はオリジナルのロバート・クレイとはひと味もふた味も違うアルバート節を聴かせており、アルバート健在を印象づけた。
また、ゲイリー・ムーアのアルバム「Still Got the Blues」(1990年)にゲスト参加した。アルバートのレパートリーのカヴァー"Oh Pretty Woman"で、ゲイリーと共にリード・ギターを担当。
彼のラスト・アルバムとなったのが1991年の「Red House」だ。ギターにジョー・ウォルシュを迎え、かなりロックっぽいサウンドに仕上がっているが、ジェームス・テイラーの"Don't Let Me Be Lonely"などの意外な選曲で懐の深さを見せている。
1992年12月21日、彼はメンフィスで心臓発作のため急逝してしまう。その数日前にロサンゼルス郊外での公演をこなし、自宅に戻ってきた矢先の出来事であった。
2013年に、ロックの殿堂入りを果たした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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