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アルパド(アルパデ、Arpad)は古代シリア北部にあった都市国家。現在はアレッポの北30kmにある遺跡テル・リファート(Tell Rif'at)となっている。この遺跡ではチェコスロバキアおよびイギリスの考古学者による発掘調査が行われた。 紀元前9世紀頃、アラム人の小さな部族国家群「新ヒッタイト」(Neo-Hittite、近年はシリア=ヒッタイト Syro-Hittite とも呼ばれる)諸国がレバント周辺からアナトリア南部、ユーフラテス川中流域に散在していた。アルパドはユーフラテス川西岸からアレッポ周囲までの範囲に広がるビト・アグシ(Bit-Agusi)という国家の中心だったが、後に近隣のアレッポ(ハラブ)に中心が移った。同時期のシリア=ヒッタイト国家群には、南のハマト、ユーフラテス川沿いのカルケミシュ、その少し下流にあるビト・アディニ(Bit-Adini、首都ティル・バルシプ)、北のグルグム(Gurgum、首都マルカシ)、東のハブール川沿岸にあるビト・バヒアニ(Bit-Bahiani、首都グザナ Tell Halaf/Guzana)などがある。ティル・バルシプからは紀元前8世紀頃にアルパドとの条約を結んだことを示す石碑が出土している。 紀元前753年頃、アッシリアの王アッシュール・ニラリ5世はアルパドに遠征を行い、その王マティエルを服属させる事に成功した。この際の条約の一部は現在も残っており、マティエルが従わない場合にアッシリアが王族や都市にもたらす懲罰が延々と述べられている。 マティエル王の死後、アルパドはシリアにおけるウラルトゥの同盟国の中心になっていた。紀元前743年、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世がシリアに遠征しウラルトゥ王国を破ったが、アルパドはアッシリア軍の攻撃に屈せず、3年にわたる包囲戦を戦った。紀元前740年にアルパドは陥落し、ティグラト・ピレセル3世は住民を殺戮し市街を破壊した。この後、アッシリア軍はダマスカス(シリア)とイスラエル王国(エフライム)の同盟軍を破り、ユダ王国の王アハズを臣従させた。 == 聖書における記述 == 旧約聖書には、アッシリアにシリア諸都市が破壊された時期のアルパド(アルパデ)は何度も言及されている。 * 列王記下18:34 (ハマトやアルパドの神はどこに行ったのか) * 列王記下19:13 (ハマトの王、アルパドの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこに行ったのか) * イザヤ書10:9 (カルノはカルケミシュと同じではないか。ハマトはかならずアルパドのようになり、サマリアはかならずダマスカスのようになる) * イザヤ書36:19 (ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか) * イザヤ書37:13 (ハマトの王、アルパドの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこに行ったのか) * エレミヤ書49:23 (ハマトとアルパドは悪い知らせを聞きうろたえている) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルパド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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