|
アルフォンソ10世(アルフォンソじゅっせい、, 1221年11月23日 - 1284年4月4日)は、カスティーリャ王国の国王 (在位:1252年 - 1284年)。一時はドイツ王(在位:1257年 - 1275年)でもあった。 フェルナンド3世と最初の王妃ベアトリス・デ・スアビアの長男である。母のベアトリスは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の従姉妹であり、ボヘミア王オタカル2世は母方の従兄にあたる。 学芸の振興に努めたため「賢王」「賢者」「学者」を意味する''el Sabio''の別名で知られている〔小林「アルフォンソ10世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』、20-21頁〕〔菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)、129-130頁〕。アルフォンソ自身は権力の基盤は英知にあると考えており〔ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(吉村作治監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2006年12月)、95頁〕、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ〔牛島『スペイン古典文学史』、7頁〕。また、現在のスペイン語の母語となったカスティーリャ語の確立者の一人とみなされており〔、「カスティーリャ語散文の創始者」と呼ばれている〔伊藤ほか『スペインの言語』、59頁〕。彼の治世にカスティーリャの文化・宗教双方の中心地はコルドバから首都のトレドに移り、アラビア文化を学ぼうとするヨーロッパ各地の研究者がトレドに集まった〔牛島『スペイン古典文学史』、8頁〕。 学術面の功績とは逆に、政治の実績には否定的な評価が下されることが多い〔〔〔グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻、258-259頁〕〔トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、362-364頁〕。 == 生涯 == === 即位前 === 1221年11月23日にフェルナンド3世とベアトリスの長子として、トレドで誕生する〔。幼少期の事績については不明な点が多い〔佐竹『概説スペイン文学史』、24頁〕。 幼時から統治と軍事についての教育を受け、1236年からコルドバ地方のイスラム教徒の居住地を征服した〔ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、200-201頁〕。1243年にサンティアゴ騎士団とともにムルシアのイスラームの領主アブー・バクルを降伏させ、ムルシア地方を支配下に置いた〔ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、203頁〕。1248年に父フェルナンドが敷いていたセビリア包囲に参加し、翌1249年にアラゴン王ハイメ1世の娘ビオランテと結婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Alfonso X of Castile 」があります。 スポンサード リンク
|