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アルフレート・フィケンシャー : ミニ英和和英辞書
アルフレート・フィケンシャー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アルフレート・フィケンシャー : ウィキペディア日本語版
アルフレート・フィケンシャー[ちょうおん]

アルフレート・フィケンシャー(Alfred Fikentscher, 1888年4月30日 - 1979年1月10日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦時、ドイツ海軍にて(Sanitätschef der Kriegsmarine)などを務めた。最終階級は海軍軍医大将(Admiraloberstabsarzt)。
== 経歴 ==
1888年、アウクスブルクに生まれる。若年期のフィケンシャーはに学生会員(Studiums Mitglied)として所属していた〔Verband Alter SVer (VASV): ''Anschriftenbuch und Vademecum.'' Ludwigshafen am Rhein 1959, S. 41.〕。1910年4月1日、のに一年志願兵として入隊。1914年4月1日、海軍医(Marinearzt)たる1年志願兵として帝国海軍に転属する。1914年5月11日からは海軍軍医将校団(Marinesanitätsoffizierskorps)に名を連ねた。第一次世界大戦勃発後の1916年4月より第2魚雷艇団(2. Torpedobootshalbflottille)の小艦隊付軍医(Halbflottillenarzt)や大巡洋艦〔(Großer Kreuzer)は、帝国海軍の艦隊法で定義されていた軍艦の分類である。5500トン以上の大型巡洋艦を指した。〕ザイドリッツ付の軍医補(Hilfsarzt)などを務めた。彼はザイドリッツの艦内で敗戦を迎え、スカパ・フローでの艦隊自沈にも居合わせている。ザイドリッツ自沈後に英国軍の捕虜となり、1920年9月に釈放された。
帰国後の1920年10月6日よりの海軍病院に勤務し、また封鎖艦クロンプリンツ(Kronprinz)付軍医も兼任していた。
1939年11月27日、再建された海軍において海軍軍医中将(Admiralstabsarzt)の階級を得ると共に海軍衛生局長官(Chef des Marinemedizinalamte)に就任する。この職は後にと改称されている。フィケンシャーは海軍軍医総監の地位や権限を定める「海軍軍医総監の為の規約」の作成に携わり、これは1942年7月に海軍総司令エーリヒ・レーダー提督によって承認されている。1942年9月1日、海軍軍医大将(Admiraloberstabsarzt)に昇進。1943年11月30日には海軍を退役するが、以後も衛生計画・経済局長(Leiter des Amts für sanitäre Planung und Wirtschaft)やカール・ブラントSS中将の後任者たる医療衛生委員会総長(Generalkommissar für das Sanitäts- und Gesundheitswesen)として敗戦まで務めた〔Ernst Klee: ''Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945.'' Fischer Taschenbuch Verlag. Zweite aktualisierte Auflage. Frankfurt am Main 2005. S. 149.〕。また、海軍軍医総監の職は海軍軍医中将が引き継いだ。
敗戦後のニュルンベルク裁判には証人として呼び出され、1946年9月6日の公聴会で証言を行なっている〔Namen der Zeugen, die vernommen wurden bzw. während der Nürnberger Prozesse aussagten (PDF; 186 kB)〕。その後はキールで眼科医として働いた〔。
1962年、著書『Ziel und Weg der nationalen Opposition』を発表する。1964年、右派地方紙『』から取材を受け、ナチス・ドイツ時代のについて質問された際、「私が思うに、こうしたシステムの根絶は認められるべきだ」と語っている〔。しかし一方で右派政治団体との交流を持ち続け、1961年ドイツ連邦議会選挙ではの、1965年ドイツ連邦議会選挙ではの候補としてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州から出馬しているが、いずれも落選している。
1979年、キールにて死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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