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アルフレート・ハインリヒ・カール・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルダーゼー伯爵(Alfred Heinrich Karl Ludwig Graf von Waldersee、1832年4月8日 - 1904年3月5日)は、ドイツ帝国の軍人。陸軍元帥。ドイツ帝国の陸軍参謀総長を務めた。義和団の乱後に中国に駐屯した8ヶ国連合軍の総司令官として知られる。 ==生涯== *プロイセン王国のポツダム出身。父親は騎兵大将で、ヴァルダーゼー家はアンハルト=デッサウ公レオポルト3世の庶子フランツに始まる貴族の家系である。6人兄弟の5番目の息子。 *1850年2月28日 士官学校卒業後、少尉として仕官。その後砲兵及び工兵としての教育を受けた。 *1866年 普墺戦争でプロイセン参謀本部付となる。 *1870年 大使館付武官としてパリへ赴任。まもなく普仏戦争が起きるが、ヴァルダーゼーの集めた軍事・地形情報がドイツ軍のフランス侵攻に役立ったといわれる。戦後の1871年、交渉のため再びパリに赴く。 *1873年 ハノーファーの第10軍団司令官となる。 *1874年 ノアー侯フレゼリクの未亡人(アメリカ合衆国出身)と結婚。 *1882年 参謀次長(Generalquartiermeister)に就任。高齢の大モルトケに代わって実質的に参謀本部を取り仕切る。 *1885年 仮想敵国であるロシア帝国とフランスに対する作戦計画を策定し、皇太子ヴィルヘルムと共にビスマルク首相の外交政策を批判する。 *1888年 ヴィルヘルム(2世)の即位に伴い、依願辞職した大モルトケの後任として陸軍参謀総長となる。 *1890年 ビスマルク首相辞任(事実上の更迭)に関与し、後継の首相候補として取りざたされた。本人が希望しなかったために就任しなかったとされている。 *1891年 軍事演習の際に皇帝ヴィルヘルムに対し軍事戦略に関する無知を指摘したため不興を買い、参謀総長の座をアルフレート・フォン・シュリーフェンに譲り、第9軍団司令官に任命された。 *1897年 社会民主党の弾圧に従事。常々皇帝の忠実な臣下を自認し、社会主義を帝国を脅かすものとして警戒していた。 *1898年 第3軍総監。 *1900年 陸軍元帥に列せられる。9月、義和団の乱鎮圧の8ヶ国連合軍司令官となり中国に派遣される。略奪を続ける連合軍兵士に軍規を徹底し、また各国間の調整にあたったが、共和制国家の軍隊であるアメリカ軍とフランス軍は決してヴァルダーゼーの指揮下に入ろうとはしなかった。義和団残党に対する懲罰遠征を繰り返す。 *1901年 中国から帰国し第3軍総監に復帰。義和団の乱鎮圧を評価され、プロテスタント教徒としては初めてカトリック教会から「ピウス勲章」を受章した。 *1904年3月5日 ハノーファーで没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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