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アルプテギーン( Alp Tegīn、925年?〔勝藤「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、262-263頁〕 - 963年〔)は、ガズナ朝の建国者(在位:962年 - 963年)。サーマーン朝のグラーム(テュルク系の軍人奴隷)の出身〔濱田正美「「イスラーム化と「テュルク化」」」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)、157頁〕。 アルプテギーンはサーマーン朝の宮廷で近衛兵を務め〔、アミール(君主)・の近衛隊長に取り立てられた〔〔蒲生「アルプティギーン」『アジア歴史事典』1巻、119-120頁〕。アルプテギーンは宮廷で強い発言力を持ち、アブー・アリー・バルアミーを宰相の地位に推薦した〔。サーマーン朝に仕えていた時代のアルプテギーンが500の村、1,000,000頭の羊、馬・ラバ・ラクダ100,000頭、騎兵30,000を所有し、国内各地の主要都市に宮殿、庭園、ハンマーム(浴場)、宿舎を持っていたことが、セルジューク朝のニザームルムルクが著した『統治の書』に記されている〔。 アブド・アル=マリク1世はアルプテギーンを宮廷に置くことを望まず、961年(962年)に彼をサーマーン朝の軍人の最高位であるホラーサーン地方の総督に任命した〔。同年にアブド・アル=マリク1世の弟であるマンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスールの即位に反対したためホラーサーン総督の地位を解任された〔。 バルフに進んだアルプテギーンはサーマーン朝が派遣した討伐隊に勝利し、さらに南下してガズナに向かった。ガズナの支配者であるアブー・アリー・ラウイークを追放して町を占領し、独立した政権(ガズナ朝を建てる。 独立後は外征に積極的な姿勢を示さず〔、963年に没した。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルプテギーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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