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アルプ・アルスラーン(Alp Arslān الپ ارسلان 、ペルシア語 عضد الدولة ابو شجاع الپ ارسلان محمد بن چغرى بك ابو سليمان داود بن ميكائيل بن سلجوق ‘Azud al-Dawla Abū Shujā‘ Alp Arslān Muḥammad b. Chaghulī Bak Abū Slaymān Dā'ūd b. Mīkā'īl b. Saljūq 、1029年1月20日 - 1072年12月15日)はセルジューク朝の第2代スルターンである。トゥグリル・ベクの甥で、トゥグリルとともにホラーサーン以西におけるセルジューク家の勢力確立に貢献した彼の兄弟チャグリー・ベクの息子。長兄にケルマーン・セルジューク朝の始祖となったカーウルドがおり、他の兄弟にスライマーン、ウスマーン、バフラーム・シャーらがいた。王朝の名祖であるセルジュークの曾孫にあたる。「アルプ・アルスラーン(アルスラン)」はテュルク語で「勇猛なるライオン」を意味する名前で、彼の軍事的な武勇や戦闘技術を称えて名づけられた。即位に際しアッバース朝カリフから下された尊称により、「偉大なるスルターン(スルターン)、王朝(ダウラ)の腕、勇敢の父、アルプ・アルスラーン・ムハンマド、信徒たちの司令者(アミール・アル=ムウミニーン)の証言者」al-Sulṭān al-A‘ẓam‘Azud al-Dawla Abū Shujā‘ Alp Arslān Muḥammad Burhān Amīr al-Mu'minīn と名乗った。 == スルターンの座 == アルプ・アルスラーンは、父チャグリー・ベグ(Chaghulī Bak)の後を継いで、1059年にホラーサーンの総督となった。セルジューク朝の初代スルターンであるトゥグリル・ベグは彼の叔父である。トゥグリルが亡くなると、アルプ・アスラーンの兄弟であるスライマーンが後継しようとしたが、アルプ・アスラーンと、トゥグリルの従兄弟クタルミシュ(トゥグリルの父ミーカーイールの長兄アルスラーン・イスラーイールの嫡子)が共に反対した。その後、アルプ・アルスラーンはクタルミシュとも王座を争ったが、結局はアルプ・アスラーンが勝ち、1064年4月27日にスルターンの座を受け継いだ。これにより彼はアムダリヤ川からチグリス川にいたるイラン地域の支配者となった。 アルプ・アルスラーンは、ムスリム初期の時代において最も有能な政治家の1人に数えられるペルシア人ニザームルムルクを宰相(ワズィール)として重用し、派閥争いを抑えて帝国の強化にあたった。領域が秩序と安全を保てるようになったところで、彼は地域の代表による会議を招集し、彼の息子マリク・シャーを後継者とすることを宣言した。そして彼は、聖バシレイオス教会の財産を狙って、自ら騎馬隊の先頭に立ってユーフラテス川を越え、カッパドキアの州都カイサリアを略奪した。彼はそのままアルメニアとグルジアに進軍し、1064年には征服した。 後に、アルプ・アルスラーンは、王座を争ったクタルミシュの息子スライマーン・イブン=クタルミシュを北西方面のいくつかの属州の総督に任命した。その後スライマーンは、セルジューク朝から分裂してルーム・セルジューク朝を興している。スライマーンの記述によると、アルプ・アスラーンはクタルミシュと争ったものの、クタルミシュが亡くなったときには涙を流して惜しんだという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルプ・アルスラーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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