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アルベルト・フォン・デア・ゴルツ : ミニ英和和英辞書
アルベルト・フォン・デア・ゴルツ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アルベルト・フォン・デア・ゴルツ : ウィキペディア日本語版
アルベルト・フォン・デア・ゴルツ

アルベルト・エミール・ヨハネス・ヘルマン・グラーフ・フォン・デア・ゴルツ(Albert Emil Johannes Hermann Graf von der Goltz〔「グラーフ」(Graf)は姓名の一部ではなく伯爵に相当する爵位。女伯や伯爵夫人は「グレーフィン」(Gräfin)と呼ばれる。〕〔, 1893年6月24日 - 1944年3月16日)は、ドイツの軍人。最終階級は予備役大佐(Oberst der Reserve)で、第二次世界大戦中に柏葉付騎士鉄十字章受章者の1人となった。
==軍歴==

===若年期と第一次世界大戦、戦間期===
1893年、アルベルト・フォン・デア・ゴルツは西プロイセン・(現在はポーランド領)にて、父ハインリヒ・アルブレヒト・グラーフ・フォン・デア・ゴルツ(Heinrich Ernst Albrecht Graf von der Goltz)と母エルザ・フォン・ボルコフスキー(Else von Borkowski)の間に生を受けた〔〔。フォン・デア・ゴルツ家は古くから続く貴族の家系で、父ハインリヒも地元の名士として知られていた。アルベルトには4歳年上の姉、エリザベート・エミー・ヴァンダ・ハリエット・グレーフィン・フォン・デア・ゴルツ(Elisabeth Emmy Wanda Harriet Gräfin von der Goltz)がいた。フォン・デア・ゴルツ家の家督は、少なくとも1427年から代々受け継がれており〔''Opracowanie ekofizjograficzne dla północnej części Gminy Wysoka'' 〕、アルベルトも父の死後、プロイセン様式の邸宅2箇所を含む全財産を相続した。ただし片方の邸宅は1922年に火災で焼失している〔。1885年国勢調査の記録によれば、フォン・デア・ゴルツ家はこれらの財産に加えて蒸留所やレンガ工場も所有し、251名の労働者を雇用していたという〔Dr. Rademacher, Michael: Deutsche Verwaltungsgeschichte: Landkreis Wirsitz . 〕〔Dziedzictwo Krajny - Czajcze 〕。
1913年、20歳になったアルベルト・フォン・デア・ゴルツは陸軍に入隊し、第1ブランデンブルク第2竜騎兵連隊(1. Brandenburgische Dragoner-Regiment Nr. 2)に配属された。同連隊は1689年に精鋭部隊として結成された部隊で、彼の貴族たる身分を鑑みての配属であった〔''1. Brandenburgisches Dragoner-Regiment Nr. 2 '' from ''Preußische Militärgeschichte'' (Attention - popups)〕。また姉エリザベートの夫、アレクサンダー・グラーフ・フォン・シュリーフェン(Alexander Graf von Schlieffen)が同連隊に勤務する士官だった為、彼がデア・ゴルツに候補生(Fahnenjunker)の身分を与えたのだとも言われている。1914年、第一次世界大戦が始まる頃、デア・ゴルツは少尉に昇進する。彼は最前線で戦い、二級一級鉄十字章を受章した〔Ritterkreuzträger.info 〕。なおフォン・シュリーフェンは1918年9月19日に近くで起こった戦闘の中で戦死している〔''Genealogisches Hanbuch des Adels'', vol. 112, p. 367 and vol. 72, p. 246〕。
休戦後、デア・ゴルツは軍を除隊し、また1919年には結婚して家へと戻っている〔Bierschenck, ''Die Deutsche Volksgruppe in Polen ''〕。戦後、ドイツ政府はヴェルサイユ条約に従い領土の一部をポーランドに割譲したが、新国境より6マイルほど外側にあったハインリヒスフェルデもポーランド領に編入されてしまった。この頃、デア・ゴルツ家はドイツ人の存在感の維持に奔走していた。例えばデア・ゴルツ自身が1920年から1928年までの間に6人の子供をもうけたように、デア・ゴルツ家を始めとする有力なドイツ人一族はドイツ人人口の増加を奨励したのである。また、デア・ゴルツは私財を投じてドイツ人・ポーランド人双方の子供を教える学校も設立している〔Eser 2010, p. 653〕。
その後、彼は国家社会主義ドイツ労働者党(NASDAP, ナチ党)の影響下にあった(Jungdeutsche Partei in Polen, JdP)の地区支部議長に選出されている。やがてポーランドにおける反独感情が高まるとポメラニアをはじめとする旧ドイツ帝国領でドイツ人に対する圧力が高まり、
奉仕所〔ドイツ語でDiakonissenstationまたはDiakonissenhausと呼ばれる施設。教会が地域ごとに設置している奉仕活動の拠点を指す。〕の閉鎖やポーランド当局による資産没収が決定するとアルベルトはこれに対する抗議を行っている。1939年2月17日、彼の行動を不満に思うポーランド人の群衆およそ250名がデア・ゴルツ家を襲撃して略奪を行った。この折、アルベルト自身も侵入者らに直接脅迫を受けている。警察は略奪が収束するまで到着せず、その後の沈静化のみ行った〔。8月、ナチス・ドイツによるポーランド侵略の噂が囁かれる中、デア・ゴルツは陸軍に復帰するべくハインリヒスフェルデを離れた。その後、彼がフライコールを率いて国境を超えてくるのではないかという噂がハインリヒスフェルデで広まり〔、現地の反独感情を一層と刺激した。ただし、デア・ゴルツ自身は後に娘から教えられるまでこの噂を知らなかった〔Polish Western Affairs, vol. 27-28, p. 252. Instytut Zachodni, 1982〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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