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アルベルト・ラットゥアーダ(Alberto Lattuada, 1914年11月13日 - 2005年7月3日)は、イタリアの映画監督、脚本家である〔Alberto Lattuada, Internet Movie Database , 2010年8月25日閲覧。〕。 == 来歴・人物 == 1914年(大正3年)11月13日、イタリア・ロンバルディア州ミラノ県ミラノで生まれる。父はオペラやオペレッタを多数手がけた作曲家のフェリーチェ・ラットゥアーダ(1882年 – 1962年)。最初は文学に興味を抱き、大学在学中の1932年(昭和7年)、反ファシズム雑誌『カミナーレ…』(''Camminare...'', 「歩く…」の意、隔週刊)の編集スタッフに加わる。 1940年(昭和15年)、脚本家および助監督として映画界のキャリアを始める。最初の作品はマリオ・ソルダティ監督のアリダ・ヴァリ主演映画『小さな古風な世界』(''Piccolo Mondo Antico'')である。1943年(昭和18年)には、映画『理想主義者ジャコモ』(''Giacomo l'idealista'')で監督デビューする。 第二次世界大戦終結後の1948年(昭和23年)、ナストロ・ダルジェント監督賞を受賞した前作 ''Il delitto di Giovanni Episcopo'' (「ジョヴァンニ・エピスコーポの殺人」)〔同様、フェデリコ・フェリーニを脚本に起用しての映画『慈悲なき世界』は、ネオレアリズモ作品であった。1950年(昭和25年)、フェリーニと共同監督・共同脚本・共同製作した映画『寄席の脚光』は、フェリーニの初監督作品であった。時代のモードに沿い、「イタリア式コメディ」、ジャクリーヌ・ササール主演の青春もの、文芸もの、戦争もの、1970年代エロティック映画などをも手がけてゆく。共同執筆する脚本家もほとんど固定しておらず、またつぎつぎに違うスター主役の作品を手がけた。 1958年(昭和33年)、ディノ・デ・ラウレンティス製作によるイタリアとフランス、ユーゴスラヴィアとの合作映画『テンペスト』では、B班監督にミケランジェロ・アントニオーニを起用、こうした大作映画もラットゥアーダのものである。同年、『芽ばえ』でナストロ・ダルジェント脚本賞を受賞、1961年(昭和36年)、 ''L'imprevisto'' でサン・セバスティアン国際映画祭監督賞を受賞、1963年(昭和38年)、 ''Mafioso'' で同映画祭金貝賞を受賞している〔。 1970年(昭和45年)、第20回ベルリン国際映画祭の審査員を務める〔。1971年(昭和46年)、 ''Venga a prendere il caffè... da noi'' でナストロ・ダルジェント脚本賞を受賞、1984年(昭和59年)、ヴェネツィア国際映画祭でピエトロ・ビアンキ賞を受賞〔、1993年(平成5年)には、映画界への長年の貢献によりフライアーノ国際賞を受賞している〔。 2005年(平成17年)7月3日、首都ローマでアルツハイマー症により死去した。満。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルベルト・ラットゥアーダ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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