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アルマダの海戦(アルマダのかいせん、、)は、スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。 広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語''Armada Invencible''の訳で、スペイン海軍のC・F・ダロ大佐が1884年に著した論文の題名が原典とされている〔小林幸雄は、本当ならば無敵であったはずという慨嘆と哀悼の意を題名に込めたのではないかとしている。〕。イングランド側視点での歴史書では、“the Invincible Armada”の名称が揶揄的な表現として稀に用いられている〔小林幸雄(2007),p.122〕。本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(''Grande y Felicísima Armada'')と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈では''Spanish Armada''、''the Armada''などと呼ぶ〔armadaそのものはスペイン語の普通名詞で、これに相当する英語はnavyである。ただしヨーロッパの言語では、ある国独特の組織・地位などを半ば固有名詞的に指す場合には、その国の言葉をそのまま用いる習慣がある。Czar(ロシア皇帝)、Shogun(江戸幕府の将軍)など。〕。 なお、両国での暦が異なる(当時イングランドはまだグレゴリオ暦を採用していない)ため、記録上の日付も異なっている。日付はスペイン側のグレゴリオ暦とイングランド側の旧暦(ユリウス暦)を併記する。 == 概要 == 当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題やイングランドのネーデルラントへの介入によって悪化しており、また、イングランド私掠船によるスペイン船や入植地に対する海賊行為もスペイン王フェリペ2世が侵攻を決意した要因の一つにあげられる。 1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月末から8月初め(旧暦7月)に行われた一連の海戦の後のグラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。無敵艦隊はスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を蒙ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻だった。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった〔Yahoo!百科事典『3. 黄金時代』 、マイペディア 無敵艦隊【むてきかんたい】 〕。ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした〔〔小林幸雄(2007),pp.124-125〕〔小林一宏(1994),p.126〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルマダの海戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Spanish Armada 」があります。 スポンサード リンク
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