翻訳と辞書
Words near each other
・ アルマンド・サ
・ アルマンド・サー
・ アルマンド・ジョゼ・フェルナンデス
・ アルマンド・ティシェイラ・プティ
・ アルマンド・ティシェラ
・ アルマンド・テイシェイラ
・ アルマンド・ディアス
・ アルマンド・ディアス (軽巡洋艦)
・ アルマンド・ディアズ
・ アルマンド・トロヴァヨーリ
アルマンド・ベジャール
・ アルマンド・ペラーサ
・ アルマンド・ペラーザ
・ アルマンド・マンサネーロ
・ アルマンド・ロサーノ
・ アルマンド・ロブレス・ゴドイ
・ アルマンベト・マツブライモフ
・ アルマン・アルベール・ラトゥー
・ アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ
・ アルマン・ギヨマン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アルマンド・ベジャール : ミニ英和和英辞書
アルマンド・ベジャール[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジャー : [じゃー]
 【名詞】 1. jar 2. (n) jar
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アルマンド・ベジャール : ウィキペディア日本語版
アルマンド・ベジャール[ちょうおん]

アルマンド=グレザンド=クレール=エリザベート・ベジャール Armande-Grésinde-Claire-Élisabeth Béjart 1640年 - 1700年11月30日)は、フランスの女優。17世紀の舞台女優として最も有名なうちの1人である。モリエールの妻。
== 生涯 ==
17世紀フランスにおいて、役者を輩出していたことで有名なベジャール家の出身。両親ははっきりとはわからない。この点について長い間論争が行われてきたが、決着はついていない〔筑摩書房 P.468〕〔英語版では断定しているが、そういう説もあれど反論もあるので、断定を避けた〕。
1650年頃から、「ムヌー嬢(''Mlle de Menou'')」なる芸名で子役として舞台を踏んでいたらしい〔白水社 P.590,1〕。「アルマンド」という名前が幼いころに使われた形跡は一切なく、「アルマンド=グレザンド=クレール=エリザベート」なる長ったらしい洗礼名は、モリエールとともに南フランスを巡業している間に付けられたものではないかとする説がある。1653年にラングドック地方の三部会が開催された際、当時モリエールの庇護者であったアルマン・ド・ブルボン (コンティ公)が議長を務めたが、この三部会の招集者の妻の名前がグレザンドという名前であったことから、彼女とともに、庇護下の役者たちのために名付け親を買って出たのではないかということである〔わが名はモリエール,鈴木康司,P.30,大修館書店,1999.〕。
1662年2月、モリエールと結婚し、3人の子供を設けた。
* ルイ(1664年1月19日 - 11月11日)
* マリー・マドレーヌ・エスプリ(1665年8月3日 - 1723年3月23日)
* ピエール・ジャン=バティスト・アルマンド(1672年9月15日 - 10月11日)の3人である。
最初の子供であるルイは当時の国王ルイ14世が名付け親となり、代父母としてその夫妻を持ったが、夭折した。3人のうち成人したのは、長女のマリー・マドレーヌ・エスプリだけである。マドレーヌ・ベジャールとかつてその恋人で、モリエールと親交のあったモデーヌ伯爵が名付け親となったが、子供をのこさなかったので、モリエールの血筋はここで途絶えた〔筑摩書房 P.468〕〔鈴木 P.25〕。
1664年頃から、女優としての才能が一気に開花した。様々なタイプのヒロイン役を次々とこなし、劇団の中心女優であることを認めさせた〔鈴木 P.45〕。1672年になって、モリエールはリシュリュー通りに豪華なアパルトマンを借り、そこへ移り住んだ。そこで第3子「ピエール・ジャン=バティスト・アルマンド」が生まれたが、わずか1か月で夭折した。その翌年、モリエールは「病は気から」の上演中に倒れ、そのまま死去した〔鈴木 P.48〕。当時の慣習として、俳優は司祭の前で俳優の職を放棄した旨を誓わなければ協会から埋葬の許可を得ることができなかったため、アルマンドは国王に請願し、国王が教会に口添えしたことでようやく埋葬が許された〔白水社 P.608,9〕〔筑摩書房 P.470〕。
モリエールの死後、劇団は本拠地パレ・ロワイヤルの使用権を失い、途方に暮れていた。アルマンドはラ・グランジュとともに、火事で劇場を失ってほとんど解散状態にあったマレー劇場の俳優を吸収し、彼らを率いてゲネゴー劇場へ移った〔筑摩書房 P.470〕。1677年5月31日には、俳優のゲラン・デストリシェ( '' Guérin d'Estriché '' )と再婚。彼との間に息子ニコラをもうけた。ニコラは1699年、モリエールの未完作品「メリセルト」の翻案を出版した〔鈴木 P.49〕。
1680年には、国王の命を受けてブルゴーニュ劇場と合併し、コメディ・フランセーズが創設された。その際、正座員( ''Sociétaire'' )となった。1694年10月14日を最後に引退し、1000ポンドの年金が支給された。引退後は、1676年に5400ポンドで取得していたムードンの家で、夫とともに亡くなるまで暮らした。この家は、フランスの王室公式外科医であったアンブロワーズ・パレが以前所有していたものである。
1700年12月2日、死去した。遺体はパリ市内の墓地に葬られた〔鈴木 P.50〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルマンド・ベジャール」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.