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アルメニア史 : ミニ英和和英辞書
アルメニア史
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アルメニア史 ( リダイレクト:アルメニアの歴史 ) : ウィキペディア日本語版
アルメニアの歴史[あるめにあのれきし]

本項では、アルメニア歴史について述べる。
メソポタミアの一部であるアルメニア高原は、世界最古の文明発祥地の一つとして知られ、そこからは前期旧石器時代の遺物も出土している。紀元前9世紀頃には、この地にウラルトゥが建設されていたが、この文明が外来の印欧語族の勢力と混ざり合ったことにより、現代に繋がるアルメニア人が誕生したと考えられている。
紀元前550年頃になると、アルメニア一帯はアケメネス朝の支配を受けるようになったが、その地方総督であったは次第に独立君主として振舞うようになっていった。やがてアケメネス朝は倒れ、続くセレウコス朝の支配も弱まると、地方豪族の反乱によって紀元前188年に、最初のアルメニア人による独立国家「アルメニア王国」が誕生した。ティグラネス2世の時代には黒海からカスピ海までを統べる大国となったアルメニアであったが、紀元前66年共和政ローマに敗れ、衰退した。その後のアルメニアは主にペルシア系のによって統治されることとなったが、紀元後301年にはによって世界最初のキリスト教国教化も成し遂げられている。
4世紀末になるとアルメニアはサーサーン朝の支配下に入ったが、アルメニア文字アルメニア教会など、アルメニア人独自の文化が生み出されたのも、またこの時代であった。続く2世紀の間、アルメニアは東ローマ帝国ムスリムの双方から支配を受けた。東ローマの側ではマケドニア王朝の創始者となったバシレイオス1世のように、皇帝にまで登り詰める者も現われた。ムスリムのアッバース朝の側でも地方君主による反乱が発生し、885年にはとして、アルメニア人たちは独立を取り戻した。だが、バグラトゥニ朝は東ローマからの激しい干渉を受け、1045年にはその属領へと転落した。この東ローマ支配もほどなくセルジューク朝による支配へ替わり、アルメニア人のなかにはこれを嫌ってキリキアへと移住する者もいた。やがてキリキアに定着して力をつけたアルメニア人は、1198年キリキア・アルメニア王国を建設し、この王国は交易国家として広く発展した。
このキリキア王国も1375年には滅び、アルメニア高地側のアルメニア人も、セルジューク朝やイルハン朝など様々な統治者の手を、数世紀の間渡り歩いた。近世になると、広く散らばって住むアルメニア人のうち東側の者はサファーヴィー朝、次いでロシア帝国の版図に入り、西側の者はオスマン帝国の住人となった。どちらの地域に住むアルメニア人も、盛んな商活動や芸術への貢献などで、その社会的地位をある程度高めていった。19世紀末になると彼らにも民族意識が生まれ、ロシアとオスマンのアルメニア人を統合しようとする試みも現われ始めた。
しかし、この新たな民族意識は、バルカン戦争第一次世界大戦最中のオスマンでは警戒を招くこととなり、1890年代1915年アルメニア人虐殺の原因にもなった。大戦中の1918年には旧ロシア領を中心としたアルメニア共和国が誕生したが、これはアルメニア人が自ら望んだものではなく、度重なる領土紛争や財政破綻など、その実情も貧弱なものであった。2年後にはアルメニアは、西からのトルコ軍と東からの赤軍に追い詰められ、苦渋の選択として共産化の道を選んだ。ソビエト連邦に加盟したアルメニア・ソビエト社会主義共和国は大きく工業化したが、同時に政治的な弾圧は絶えず、また祖国の共産化は在外アルメニア人の間にも軋轢を生んだ。
1991年には、ソ連崩壊によってアルメニアは独立したが、同時にアゼルバイジャンとの間にナゴルノ・カラバフ戦争が本格化した。停戦後もアゼルバイジャンとトルコからの経済制裁は続いており、ロシアグルジアとの関係も安定しているとは言えない状況にある。
== 先史時代 ==

チグリス川ユーフラテス川の源流近くに位置するアルメニア高原は、メソポタミアの一部として、世界最古の文明発祥地の一つとされる〔佐藤 (1988) 49頁〕。しかし文明の成立以前にも、アラガツ山からは前期旧石器時代の石器が出土しており、を経て中石器時代の遺構も、アルティン山から発見されている〔藤野 (1991) 15-17頁〕。その他、刀剣や陶器など新石器時代の幅広い遺物は、現代のアルメニア各地から出土している〔佐藤 (1988) 57-58頁〕。
また、早くも紀元前7千年紀には、様々な用途に加工された黒曜石の品が、トロス山脈を越えたメソポタミア平野へと輸出されていたと推定されており、この時代から既に、アルメニアではチグリス・ユーフラテス川を利用した河川交易が行われていたとみられる〔佐藤 (1988) 59-61頁〕。紀元前2千年紀の遺構からは青銅の装飾品も出土しており、さらにはそれらに宝石で象嵌を施す技術も生み出されていた〔藤野 (1991) 19頁〕。
しかしながら、アルメニア人自体の起源については未だ解明されていない。アルメニア人をフリギアからの移住者とするヘロドトスストラボンの記述はよく知られているが、今日の言語学と考古学からの検討によって、アルメニア人=フリギア人説はほぼ否定されている〔北川 (1989) 47-48頁〕。一方ヒッタイトの記録によれば、彼らの東方にはという国があり、この名はアルメニア人の自称である「ハイ」の国を意味する〔北川 (1989) 42-43頁〕。このアルメニア=ハイアサ説は多くの印欧語学者からの支持を得ている〔佐藤 (1988) 54-55頁〕。その他、アッシリアの年代記に度々交戦の記録がみられる集団「ムシュキ」をアルメニア人と関連付ける見方も存在する〔北川 (1989) 44-46頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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