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アルモディス・ド・ラ・マルシュ : ミニ英和和英辞書
アルモディス・ド・ラ・マルシュ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アルモディス・ド・ラ・マルシュ : ウィキペディア日本語版
アルモディス・ド・ラ・マルシュ


アルモディス・ド・ラ・マルシュ(Almodis de la Marche, 1020年頃 - 1071年10月16日)は、中世フランスおよびスペインイベリア半島)の貴族の女性。ラ・マルシュ伯ベルナール1世とその妻アメリーの娘。
アルモディスは1038年頃、ユーグ5世・ド・リュジニャンと結婚し、息子2人と娘1人をもうけた。
* ユーグ6世・ド・リュジニャン(1039年頃 - 1101年)
* ジョルダン・ド・リュジニャン
* メリザンド(1055年以前 - ?) - 1074年以前にパルトネー子爵(Vidame)シモン1世"大司教"と結婚
アルモディスとユーグは近親婚を理由に離婚し、1040年にユーグはアルモディスをトゥールーズ伯ポンスと結婚させた。
* ギヨーム4世(1040年頃 - 1094年) - トゥールーズ伯(1061年 - 1094年)
* レーモン4世(1052年頃 - 1105年) - トゥールーズ伯(1094年 - 1105年)
* ユーグ - サン=ジル修道院長
* アルモディス - メルグイユ伯ピエールと結婚
1053年4月にはアルモディスはポンスの妻であったが、その後まもなくアルモディスはバルセロナ伯ラモン・バランゲー1世に誘拐された。ラモン・バランゲー1世は、同盟者トゥルトーザのムスリムのエミールにより送られた艦隊を使って、アルモディスをナルボンヌから誘拐した。夫ポンスが生存しているにもかかわらず二人はすぐに結婚し、翌年に双子の息子をもうけた。教皇ウィクトル2世は、この違法な結婚のためアルモディスとラモンを1056年まで破門した。二人の間には4人の子が生まれた。
* バランゲー・ラモン2世(1053/4年 - 1097年) - バルセロナ伯(1076年 - 1097年)
* ラモン・バランゲー2世(1053/4年 - 1082年) - バルセロナ伯(1076年 - 1082年)
* イネス - ギーグ2世・ド・アルボンと結婚
* サンチャ - サルダーニャ伯ギリェルモ1世と結婚
アルモディスは前夫や多くの子供たちと連絡を取り続け、1066年もしくは1067年には娘の結婚式のためにトゥールーズに旅をしている。それより前の1060年に、最初の夫ユーグ5世はアルモディスの息子トゥールーズ伯ギヨーム4世の助けによりアキテーヌ公ギヨーム8世に対して反乱を起こした。アルモディスの息子たちは軍事面でお互いに協力し合い、ユーグ6世、レーモン4世、バランゲー・ラモン2世は皆十字軍に参加した。
三番目の夫ラモンは最初にアルモディスの姉妹Rangeardeの娘イサベル・トランカヴェルと結婚しており、イサベルとの間にできた息子ペレ=ラモンがラモンのもともとの継嗣であった。ペレ=ラモンはアルモディスの影響力を快く思わず、アルモディスが自らの双子の息子をペレ=ラモンに替えて継嗣とするのではないかと憂慮していた。1071年10月、ペレ=ラモンはアルモディスを殺害し、その結果、継嗣から外され国外追放となった。父ラモン・バランゲー1世が1076年に死去した際に、バルセロナは双子の息子バランゲー・ラモンとラモン・バランゲーとの間で分割された。その後、バランゲー・ラモンは兄弟ラモン・バランゲーを殺害し、「兄弟殺し伯」と呼ばれた。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルモディス・ド・ラ・マルシュ」の詳細全文を読む




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