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ラス・アルラ・エングダ・クビ(Ras Alula Engda Qubi, 1827年 - 1897年)は、エチオピア帝国の軍人。「アババ・ネガ」、「アルラ・クビ」の称号でも知られる〔Shinn, p. 25〕。 エチオピア皇帝ヨハンネス4世とその後継者を助けて、国内の統一と諸外国との戦いを指揮した。そのため、欧州からは「アビシニアのガリバルディ」と称された〔Augustus B. Wylde, Modern Abyssinia (London: Methuen, 1901), p. 29〕。 ==出自== ラス・アルラは1827年、エチオピア北部のティグレ州で生まれる。この当時のエチオピアは18世紀前半から続く諸公侯時代(オロモ人系のヤジュ朝)の末期で、各地方の諸侯がヤジュ朝の統制から離れてそれぞれ勢力を拡大する内乱の時代だった〔山田(2013,165)〕。またラス・アルラの「ラス」とはエチオピアにおいて諸公侯を意味する敬称であったが、それは後に封じられた地位であり、アルラ自身はティグレ地方の貧農の出自だった〔山田(2013,165)〕。そのためアルラには教育が施されず、生涯にわたって読み書きができなかった。しかしそれにも関わらずアルラは聡明であり、体格と騎乗技術に恵まれた青年に成長する〔山田(2013,168)〕。 本来ならばそのまま農民として生を終える出自であったが、ヤジュ朝衰退後のエチオピアでの騒乱の中でも、アルラの出身地ティグレの混迷は群を抜いていた。ティグレ人同士の内紛に加え、ヤジュ朝の皇帝が独立傾向のあるティグレ人を警戒して積極的に介入を行っていたためだった。アルラの少年期には、ティグレ人の内紛の勝者と皇帝軍が激突して双方の指導者が戦死する事件が起こっている。その戦乱の中でアルラを見出したのは、ティグレ人の実力者の一人、「ティグレのカッサ」(後のヨハンネス4世)の叔父の一人だった。「ティグレのカッサ」の叔父の元、アルラは急速に頭角を現していき、ついにはカッサの叔父の娘婿となるに至った。これはカッサの一族入りを意味し、主に軍事においてその才能が重用された〔山田(2013,165)〕。特に略奪に関して容赦がなく、「アルラの侵攻した村落には何も残らない」と恐れられた。またアルラの口調はゆっくりとして、外部の人間に対して態度は常に丁重であったが、決して笑うことはない人物だったとされている〔山田(2013,168)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラス・アルラ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ras Alula 」があります。 スポンサード リンク
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