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アル・コステロ(Al Costello、本名:Giacomo Costa、1919年12月14日 - 2000年1月22日)は、イタリア出身のプロレスラー。 オーストラリアに移住後、プロレスラーとなって北米に進出。ロイ・ヘファーナンやドン・ケントとの悪役タッグチーム、ファビュラス・カンガルーズ(The Fabulous Kangaroos)のリーダー格として活躍した。 == 来歴 == 6歳の時に両親とイタリアのサリーナ島からオーストラリアのニューサウスウェールズ州に移住。少年期はボクシングとレスリングで活動し、1938年にプロレスラーとしてデビュー。イタリア系ヒールのキャラクターを強調するために、リングネームはマフィアのアル・カポネとフランク・コステロにあやかって付けられたという〔。1951年には、隣国のニュージーランドにてオーストラレージアン・ヘビー級王座を獲得した。 1952年よりアメリカへ進出、1950年代前半はサンフランシスコを活動拠点に、エンリケ・トーレスやシャープ兄弟、ロニー・エチソン、レオ・ノメリーニ、ハードボイルド・ハガティ、ボボ・ブラジル、そして日本から修行に来ていた力道山とも度々対戦した。 1957年、カナダのカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)にて、オーストラリア出身のロイ・ヘファーナンをパートナーにファビュラス・カンガルーズを結成。以降、テキサス、ニューヨーク、ロサンゼルス、フロリダ、バンクーバーなどの主要テリトリーを転戦し、各地のタッグタイトルを獲得した。ヘファーナンの帰豪後は、1967年よりドン・ケントを新パートナーにカンガルーズを再編。1968年1月にはTBS体制下の国際プロレス、1972年11月には日本プロレスに来日している。 カンガルーズ以外の活動では、ヘファーナンとの初代カンガルーズ解散後、ドイツ人ギミックのカール・フォン・ブラウナーとジ・インターナショナルズなる反米タッグチームを結成。1966年11月にテキサス州ダラスにて、フリッツ・フォン・エリック&デューク・ケオムカからテキサス東部版のNWA世界タッグ王座を奪取している。ケントとの2代目カンガルーズ解散後の1970年代後半は、テネシーのCWAを主戦場に、若手時代のテリー・ゴディやロバート・ギブソン、ウェイン・ファリスなどと対戦。1979年8月には全日本プロレスに来日した。 セミリタイア後の1980年代前半はプエルトリコのWWCやフロリダのCWFにて、ドン・ケントとブルーノ・ベッカーおよびジョニー・ヘファーナンによる新生カンガルーズのマネージャーとなって活動。引退後は、1987年11月16日に行われたWWFのニュージャージー州メドーランド大会でのオールドタイマーズ・バトルロイヤルに出場した(他の参加選手は、優勝者のルー・テーズ以下、パット・オコーナー、ジン・キニスキー、ボボ・ブラジル、アート・トーマス、エドワード・カーペンティア、クラッシャー・リソワスキー、キラー・コワルスキー、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、ペドロ・モラレスなど)。 1993年から1994年にかけては、五大湖地区のインディー団体にてデニー・キャスとミッキー・ドイルおよびアル・スノーによってリメイクされたニュー・ファビュラス・カンガルーズのマネージャーも担当した。 2000年1月22日、肺炎のため80歳で死去。没後の2013年、ロイ・ヘファーナンと共にNWA殿堂に迎えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アル・コステロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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