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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カーディー・アル=ファーディル・アブー・アリー・アブドゥルラヒーム・アル=ラフミー・アル=アスカラーニー(''Qādī al-Fādil Abū Alī 'Abd al-Rahīm al-Lakhmī al-Askalānī''、 1135年-1200年)は、ファーティマ朝・アイユーブ朝に仕えたエジプトの官僚で、サラーフッディーン(サラディン)の宰相(ワズィール)。ラカブはムジールッディーン、もしくはムヒーユッディーン〔。「カーディー・アル=ファーディル」は「博学たるカーディー」の意。 サラーフッディーンの第一の側近であり〔佐藤a pp.101-102〕、主君より二歳年上で兄のような存在であったともされる〔Edde pp.4-5〕〔松田 p.14〕。 ==生涯== ===ファーティマ朝の書記官=== 生誕地は当時ファーティマ朝の領地であったパレスチナのアスカロン〔。生家であるバイサーニー家(ファーディルの父親がバイサーンの街のカーディーを務めており、それが家名となった)はアラブの名族ラフム族の一員であり、また代々カーディーを輩出していた〔。彼もその伝統に則りカーディーとなったと思われる。 家庭の事情でエジプトへ出た彼は、当地で父親を亡くした後、父の知り合いを頼ってアレクサンドリアで働く〔Ibn Khallikan vol.4 pp.564-565〕。しばらく後、イブン・ルッズィークが彼に目をつけてアレクサンドリアからカイロに召し出し、秘書に任じた〔。ファーティマ朝の宰相シャーワルの秘書、シャーワル殺害後はエジプトへ乗り込んでいたシールクーフの秘書を経て、サラーフッディーンの秘書として働くこととなる〔。サラーフッディーンのファーティマ朝宰相就任時、ファーティマ朝カリフの権力は無きに等しい状態になっていたので、事実上、サラーフッディーンがスルターン、ファーディルが宰相であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アル=ファーディル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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