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アル=アーディル(アラビア語:الملك العادل سيف الدين أبو بكر بن أيوب al-Malik al-Ādil Saif al-Dīn Abū Bakr b. Ayyūb、生没年:1145年 - 1218年、在位:1200年 - 1218年)は、アイユーブ朝の第4代スルタン。サラーフッディーンの弟。 通常「スルターン・(アル=マリク・)アル=アーディル」などと称される。「アーディル(العادل Al-Ādil)」とはアラビア語の原義では「公正なる者」を意味する。イスラム社会の政治的理念によれば、君主やウンマを統括するような政治的指導者の必須の徳目としてアドル(عدل; adl)「公正(たること)」が第一に挙げられている〔マーワルディー p. 9 , p. 47 , p. 67 〕。 彼の兄サラーフッディーン・ユースフがヨーロッパにおいて「サラディン」と呼ばれたのと同様、彼もラカブのサイフッディーンから「サファディン」と呼ばれる〔ヒッティ p. 592〕。 == 生涯 == === サラーフッディーンの弟として === 兄に従って十字軍との戦争で活躍した。第3回十字軍の総司令官・リチャード1世と交渉して、和睦を成立させたのはアーディルの手腕によるものである。 1145年に誕生。この時期、父アイユーブはザンギーからバールベクの統治を任されており〔佐藤 p. 49〕、彼もバールベクで産まれた可能性が高い。記録は残っていないが当時のムスリムの一般的な慣習〔佐藤 pp. 63-4〕からすれば、1159年頃成人して帯剣するようになったと思われる。 兄サラーフッディーンとともに叔父シールクーフに従い1168年の第三回エジプト遠征に従軍。そのままエジプトにとどまり、兄の名代としてエジプトを統治していた。1174年、ファーティマ朝残党が上エジプトで反乱を起こした際、これを鎮圧〔Maqrizi pp. 50-1〕。 1177年、サラーフッディーンが新たな艦隊の建造を命じ、アーディルは新設の「艦隊庁」の長官に任じられ80隻の艦隊を揃えた〔太田 pp. 48-9〕。なお、提督としてエジプト艦隊の指揮を取ったのはアーディルの家令であったフサームッディーン・ルゥルゥであった〔Maqrizi p. 70〕〔Ibn al-Athir vol.2 p. 289〕。 サラーフッディーンの対十字軍戦争に援軍の要請があり、1183年にはエジプト軍を率いてカラク攻撃に合流。アーディルはアレッポの統治権を所望してサラーフッディーンがこれを認めたため、この後アーディルはアレッポに移ったが、すぐにエジプトで問題が起こったためカイロに舞い戻っている〔Ibn al-Athir vol.2 pp.297-8 , pp. 313-4〕。 1187年のヒッティーンの戦いの後は兄と合流し、エジプト軍を率いて十字軍との戦いに身を投じた。 第3回十字軍に際してはアッカ攻防などに参加。最終的には和平交渉を受け持ち、リチャードとの和約を実現させた〔Ibn al-Athir vol.2 pp. 401-2〕〔Baha al-din pp. 230-1〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アル=アーディル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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