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アル=マクリーズィー(、Taqi al-Din Abu al-Abbas Ahmad ibn 'Ali ibn 'Abd al-Qadir ibn Muhammad al-Maqrizi、1364年 - 1442年)は、マムルーク朝時代のエジプトの歴史家。 マクリーズィーが生きた時代のエジプトはマムルーク軍閥の抗争、ペストの流行による社会・経済の危機に直面し、彼自身もその混乱の中に身を置いていた〔佐藤「マクリーズィー著『エジプト誌草稿本』」『東洋学報』79巻3号、48頁〕。著作の中で社会変化を克明に書いた点において、他のイスラーム世界の歴史家よりも優れていると評価される〔。彼の著作は、エジプト史を研究する上で重要な史料として利用されている〔嶋田「マクリージー」『アジア歴史事典』8巻、346頁〕。 == 生涯 == 1364年にカイロの学者の家に誕生する。マクリーズィーは預言者ムハンマドの子孫を自称して、カリフ・アリーの子の一人フサインの末裔に連なる家系の出身であると主張していた〔森本一夫『聖なる家族』(イスラームを知る, 山川出版社, 2010年1月)、12頁〕。ハナフィー派やシャーフィイー派の法学を学んだ後、メッカに遊学した。 1382年にマクリーズィーはカイロに来訪したイブン・ハルドゥーンの講義を聴講し、大きな衝撃を受けた〔佐藤「マクリージー」『新イスラム事典』、448頁〕〔森本『イブン=ハルドゥーン』、149頁〕。以来マクリーズィーはハルドゥーンを「我らが師」と呼び、多くの学問を教わった〔森本『イブン=ハルドゥーン』、150頁〕。 マクリーズィーは最初政府の公文書係を務め、1399年に市場の監督官に任じられた〔。モスクの説教師、マドラサ(神学校)の教師を歴任し、1407年/08年にダマスカスに移った。ダマスカスではヌーリー病院の管理業務の傍らで、マドラサで歴史学・伝承学を講義した〔。 1417年にカイロに戻り、公職を辞して著述活動に専念した〔。隠棲後のマクリーズィーは、没前まで他人の元を訪れることすらほとんど無かったと伝えられている〔佐藤「マクリーズィー著『エジプト誌草稿本』」『東洋学報』79巻3号、48-49頁〕。1442年に生地のカイロで没した。遺体はカイロのの外の墓地に埋葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アル=マクリーズィー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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