翻訳と辞書
Words near each other
・ アレキサンダー・ロジェンコ
・ アレキサンダー・ロッシ
・ アレキサンダー・ロバーツ
・ アレキサンダー・ワン
・ アレキサンダー多項式
・ アレキサンダー大王
・ アレキサンダー広場
・ アレキサンダー病
・ アレキサンダー空港
・ アレキサンダー諸島
アレキサンデル・スパン
・ アレキサンデル・フォルド
・ アレキサンデル・フォン・シーボルト
・ アレキサンデル・マスリアンコ
・ アレキサンドライト
・ アレキサンドライト効果
・ アレキサンドラトリバネアゲハ
・ アレキサンドラ・ゴロフキナ
・ アレキサンドラ・ハガロワ
・ アレキサンドラ・パレス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アレキサンデル・スパン : ウィキペディア日本語版
アレキサンデル・スパン
アレキサンデル・スパンAlexander Spann, 1890年12月22日 - 没年月日不明)はドイツ出身の翻訳家農学者。現代ドイツ語の発音に近いアレクサンダー・シュパンとも表記される。
== 生涯 ==
1890年ハンブルクアルトナで生まれる。ハレギムナジウムを卒業後、農園での実習を経て1908年に高等農学校に入学。1910年に卒業して農園の支配人となり、さらにベルリン大学ハレ大学で勉強を続けた〔上村 (2005: 132)〕。1912年志願兵として青島に赴任し、1914年に独支大学農林学科の助手となったが、同年に第一次世界大戦が勃発したため海軍歩兵大隊に入隊した〔。青島の戦いの結果、他のドイツ兵とともにスパンも捕虜となり、久留米の捕虜収容所で1920年まで過ごしている。点呼に遅れて重営倉入りを課されたこともあったが、所内発行の雑誌の主筆を務めたり、日本語の習得に励んだりしている〔。
終戦による解放後、1920年11月から九州帝国大学講師となり医学部でドイツ語を教え、翌1921年から1926年にかけては同大農学部でドイツ農業発展史の講義を受け持った〔。また、1922年から1925年まで山口高等学校でドイツ語を教えたほか、久保猪之吉の紹介で幸袋町にある伊藤伝右衛門の農園で顧問を務めている〔。これらの業務のかたわらで『Das Junge Japan』という雑誌を1924年からほぼ一人で発刊して日独の文物紹介を行ない、特に日本の近代文学作品の翻訳を数多く行なった〔。神戸鉄道病院でドイツ語講師を務めたのち、1927年に九州帝大に復職し医学部講師としてドイツ語論文の添削を行なったほか、九州医学専門学校でも講義を行ない、同校の水泳部部長にもなっている〔。1934年3月10日付で九州帝大を依願退職し、三池港から帰国したとも言われるが消息は不明〔。一説には不倫が原因で日本を去ったともいう〔大分合同新聞社 大分今昔 第二十九章 P.14 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレキサンデル・スパン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.