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サー・アレクサンダー・コルダ (Sir Alexander Korda, 1893年9月16日 - 1956年1月23日)は、ハンガリー映画産業の草創期の立役者で、イギリスの映画監督・映画プロデューサー。 == 生涯 == ユダヤ系ハンガリー人で、ハンガリー語名はコルダ・シャーンドル (Korda Sándor) 。出生児の氏名は Kellner Sándor László(ケルネル・シャーンドル・ラースロー)であった。メゼートゥール市 (Mezőtúr) の小学校に通った後、ブダペストのメシュテル街商業学校に進学した。その学校の標語であるラテン語の「Sursum corda!」(スルスム・コルダ!=心を高く挙げよ)が気に入っていて、後にコルダ姓を名乗ることになった。 ハンガリーの、ヤース・ナジクン・ソルノク城県の現在はトゥールケヴェ市 (Túrkeve) の郊外となっているプスタトゥールパーストー (Pusztatúrpásztó)で生まれた。 若い頃には日刊紙『独立ハンガリー』のパリ特派員となる。その後複数の映画雑誌に寄稿するようになる。すでに1912年には19歳にして雑誌『活動写真ニュース』(モズゴーフェーニュケープ・ヒーラドー)(Mozgófénykép Híradó) に多くの記事を執筆し、日刊紙『世界』(Világ) の批評家となり、1918年まで『ペシュト映画』(ペシュティ・モズィ)(Pesti Mozi)、『映画』(ア・モズィ)(A mozi)、『映画週間』(モズィヘート)(Mozihét) 等の編集を担当する。 映画監督ケルテース・ミハーイ(マイケル・カーティス)を見出したことでも知られるハンガリー映画産業の先駆者の一人であるヤノヴィッチ・イェネー(俳優・監督・脚本家)が脚本家シクローシ・イヴァーン (Siklósi Iván) の勧めでトランシルヴァニアの中心都市、古都コロジュヴァールにコルダ兄弟を呼び寄せ、コルダはそこで複数の映画を撮ることで、映画制作の方法を学んだ。ヤノヴィッチは1914年に映画会社 PROJA(プロヤ)(Projectograph Janovics プロイェクトグラフ・ヤノヴィッチ)を設立していた。PROJA は後にコルヴィン映画製作所(コルヴィン・フィルムジャール Corvin Filmgyár)、トランシルヴァニア映画製作所(トランススィルヴァーニア・フィルムジャール Transsylvania Filmgyár)と名を変え、1920年までに48本の映画を制作した。コルダはブダペストに戻ると独立し、ヤノヴィッチよりコルヴィン映画製作所を買収することになった。 1914年に最初の監督作品、『騙された記者』(A becsapott újságíró) を撮る。1917年にはブダペストにコルヴィン映画製作所 (Corvin Film Stúdió) を設立する。1919年にハンガリーを出国するまでにハンガリー国内で25本の映画を監督している。 1919年に共産主義者ハンガリー党がハンガリー評議会共和国を樹立すると、コルダは映画芸術執行委員を務めた。革命が破れた後、妻で女優のコルダ・マーリア (Korda Mária) (旧姓名はファルカシュ・マーリア・アントーニア Farkas Mária Antónia)の機転でオーストリアに難を逃れた。オーストリアのウィーン、ドイツのベルリンで映画を撮った後、米国のハリウッドに移り、ユナイト映画(ユナイテッド・アーティスツ)の監督となる。アメリカ時代の代表作は、『トロイ情史』(1927年)。ついでフランスへ渡り、最後にイギリスに定住し、ロンドン・フィルムを設立した。 監督作品に『ヘンリー八世の私生活』(1933年)や『描かれた人生』(1936年)の名作があるが、その後は主として制作者となり、国際的にイギリス映画を大いに広めたが、第二次世界大戦中はアメリカに渡った。 戦後イギリスへ帰国し、破産に貧したロンドン・フィルムを復活させ、キャロル・リード、デヴィッド・リーンら名監督を擁してランク・フィルムと対抗するイギリス映画界の旗頭となった。キャロル・リードの名作『第三の男』については、映画化を前提に、ウィーンを舞台にした物語を書いてほしいと、作家のグレアム・グリーンに依頼した。グリーンは原作小説及び脚本を執筆した。 映画界での功績により、ナイト位を授けられた。女優マール・オベロンとはこの時期に結婚していた。 チャーリー・チャップリンに『独裁者』の制作を勧めたのもコルダである〔大野裕之『チャップリン再入門』NHK出版〕。 1956年、ロンドンにて心臓発作により死去。62歳であった。後に英国アカデミー賞において、アレクサンダー・コルダ賞(優れたイギリス映画に授与される)が制定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレクサンダー・コルダ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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