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アレクサンダー・ティロック・ガルト(、1817年9月6日- 1893年9月19日) は、カナダの政治家である。カナダ連邦結成の父として知られる。 ==政界== ガルトは1864年から67年に連邦結成を実現させたカナダ植民地の大連立政権の一員である。彼は大連立政権の大立者であった。最初、ガルトはエドマンド・ウォーカー・ヘッド総督から首相就任を打診されていた。けれども、立法議会で与党を形成する自信がなかったガルトはこれを辞退し、かわりにジョルジュ=エティエンヌ・カルティエとジョン・A・マクドナルドを新政権の共同首相に推薦した〔。 これに対してカルティエとマクドナルドの方は彼にカナダ政府監察官への就任を依頼した。ガルトは、両名が連邦結成のための基本綱領を新政権で作ってくれるならという条件で、これを受けた。1858年、ガルトはキングストンの議会に決議案を提出した。本案の内容は、英領北アメリカ(カナダ・イースト、カナダ・ウェスト、プリンスエドワードアイランド、ニューファンドランド、ニューブランズウィック、ノバスコシア)とルパート・ランド(ハドソン湾会社所有)を併せて連邦を新設するよう、イギリス政府に対してカナダ植民地政府が勧告する、というものであった。決議が採択されると、ガルト、ジョン・ロス、カルティエがロンドンに派遣された。彼らは、英領北アメリカがイギリス帝国において初めてとなる主権自治領となるよう、粘り強くイギリスを説得した。 監察官としてガルトはカナダ植民州の銀行制度と貿易政策の改革に取り組んだ。彼は植民地の産業を保護するケイリー=ガルト関税を創設したが、これによってイギリスとアメリカの双方で不満が渦巻くことになった 。 1867年7月1日、カナダ・イースト、カナダ・ウェスト、ニューブランズウィック、ノバスコシアは連邦を結成し、英領北アメリカ初の自治領植民地となった。ガルトは新しくできた連邦政府の初代財務大臣に就任した。財相としての彼は従前の政策を翻し、イギリス帝国内の貿易を促進する姿勢を示した。けれども、カナダ商業銀行の取り扱いをめぐってマクドナルドやカルティエと対立したガルトは、大臣職を辞し、次の選挙でも立候補することはなかった 。 それでも、ガルトはカナダの政財界において重要人物でありつづけた。1877年、イギリス政府によってガルトは、カナダ水域におけるアメリカの漁業権を協議するハリファックス漁業委員会の帝国側代表に任命された。首相に再選されたマクドナルドとの関係が修復されたこともあり、ガルトはイギリスにおけるカナダの非公式代表としてロンドンに派遣された。当時のロンドンはカナダ政府にとって唯一の海外拠点であったから、彼はそこから足を延ばしてフランスやスペインと貿易交渉することもあった。イギリス政府もこのことは承知しており、カナダが帝国とは別に独自の対外政策を築きつつあることを苦々しく思っていた。こうしてイギリス政府の要請によってガルトの地位は公式化されることになり、1880年の後半にカナダ初の在イギリス高等弁務官に就任した〔〔。彼がこの地位から退いたのは1883年6月1日である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレクサンダー・ティロック・ガルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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