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アレクサンドル・アルディ : ミニ英和和英辞書
アレクサンドル・アルディ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アレクサンドル・アルディ : ウィキペディア日本語版
アレクサンドル・アルディ

アレクサンドル・アルディフランス語:Alexandre Hardy1570年または1572年頃 - 1632年)は、フランスパリ出身の劇作家。フランス17世紀初頭の演劇界で活躍し、性と暴力の逆巻く「残酷劇」を代表する作家である〔フランス十七世紀の劇作家たち 研究叢書52,中央大学人文科学研究所編,P.95,中央大学出版部,2011年〕。アルディが活躍した頃の観客たちは劇の内容や芸術性などには関心もなく、そもそも理解できなかった。彼らが専ら求めていたのは刺激的な場面や、低俗な笑いのみであった〔芝居とその観客 : 17世紀初期のパリにおける,P.11,戸口民也,フランス文学論集 (11), 8-15, 1976-11-23,日本フランス語フランス文学会〕。アルディはこれをよく理解していたため、彼の作品には暴力的な場面が極めて多い。生涯に600編以上の戯曲を著したとされるが、現存しているのは34編のみである〔フランス十七世紀の劇作家たち P.97〕。
== 生涯 ==
資料不足のため、生涯についてはほとんどわからない。
1572年頃、パリに生まれた。アルディ家は、親類に宮廷や高等法院で働いていた者がいることから、名門や上流階級とは言えないが中流の町民階級に属していたものと推察され、幼少~青年期のアルディがブルジョワジーの子息にふさわしい教育を受けたことは間違いない。劇作の典拠にウェルギリウスプルタルコスヘリオドロスなどの古代の作家たちを用いた点を考慮しても、この時期に古典的名作に親しみ、ラテン語文献を自由に渉猟できたことも明らかである。彼の教養は同時代のヨーロッパ文学からも影響を受けており、特にピエール・ド・ロンサールミゲル・デ・セルバンテスからの影響は著しい〔Ibid. P.96〕。
アルディが演劇を志したのは16世紀の終わりごろ、20代の前半のことである。はじめは役者として、当時の名俳優であったヴァルラン・ル・コントやベルローズら率いる劇団に加入し、地方巡業にも従っている。1600年にはアンジェに、1611年にはパリで活動していたことが確実にわかっているが、役者としてのどれほどの力量を持っていたかはわからないし、それ以外の年にどこで何をしていたのかもまったくわからない。役者として活動しているうちに、台本作家も兼ねるようになり、座付き作家(''poéte à gages'')として劇作に励むようになった〔Ibid.〕。
座付き作家とは著作権(当時は著作権などという概念はほぼ存在しないが)を持たず、劇団の求めに応じて迅速、大量に制作した作家のことで、アルディの場合は、ブルゴーニュ劇場を拠点としていた王室劇団との現存する契約書によれば「2年間で12本の作品を提供し、かつ原稿は必ず手渡しし、その内容は一切手元に保存しないこと」とある。つまり2か月に1本という驚異的なペースで作劇に当たらねばならず、アルディの言葉によれば、貧困に喘ぎつつ、生涯で600本を超える戯曲を制作したというが、現存しているのは34編のみである〔Ibid. P.96-7〕。
1620年、50代を迎えたころから、座付き作家を棄て、自作を出版することで名を世に遺そうと考え始めたようだ。そしてこの考えは、見事に成功した。現存する34編の作品は、すべてこの考えに従って刊行されたものである。1623年に長大な劇詩『テアジェーヌとカリクレの清らかで忠実なる恋(''Les Chastes et Loyales Amours de Théagène et Chariclée'')』を刊行したのをはじめとして、1624年から4年かけて全5巻からなる『アレクサンドル・アルディ戯曲集(''Le Théâtre d'Alexandre Hardy'')』を出版した。この戯曲集には、テオフィル・ド・ヴィオーやトリスタン・レルミットなどの有名詩人の序文が付され、絶賛されているが、あくまで社交辞令の域を出ない。1620年代には彼の演劇に対する考え、懐古趣味は古びた考えと化しており、この点を巡ってジャン・オーヴレなど、当時の新進作家たちと激しい論争となった。彼らはアルディを「粗悪な言語を操る年寄り」などとして、彼の文章を貶したが、彼を擁護しようとする者はもはやいなかった〔Ibid. P.97-9〕。
彼の証言やその座付き作家という職業から、生活苦に喘ぐ貧乏作家であったと信じられてきたが、コンデ公の秘書を務めていたことや、その妻イザベルにかなりの遺産を遺したことがわかっており、晩年は比較的安定した生活を送っていたようである。1632年、伝染病に罹患して、パリで死去した。おそらくペストが原因である〔Ibid. P.98〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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