翻訳と辞書
Words near each other
・ アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教)
・ アレクサンドロス1世 (ギリシャ王)
・ アレクサンドロス1世 (マケドニア王)
・ アレクサンドロス2世
・ アレクサンドロス2世 (エピロス王)
・ アレクサンドロス2世 (マケドニア王)
・ アレクサンドロス3世
・ アレクサンドロス4世
・ アレクサンドロス5世
・ アレクサンドロスに贈る弁論術
アレクサンドロス・イプシランディス
・ アレクサンドロス・ツィオリス
・ アレクサンドロス・ツォルバス
・ アレクサンドロス・ツォルヴァス
・ アレクサンドロス・ニコロポウロス
・ アレクサンドロス・パナグリス
・ アレクサンドロス・フリサフォス
・ アレクサンドロス・ポリュヒストル
・ アレクサンドロス・マルガリティス
・ アレクサンドロス・ヤンナイオス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アレクサンドロス・イプシランディス : ミニ英和和英辞書
アレクサンドロス・イプシランディス[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

アレクサンドロス・イプシランディス ( リダイレクト:アレクサンドル・イプシランティ ) : ウィキペディア日本語版
アレクサンドル・イプシランティ[らん]

アレクサンドル・イプシランティまたはアレクサンドル・イプシランティスロシア語ギリシャ語ルーマニア語 Alexandru Ipsilanti、英語 Alexander Ypsilantis、Ypsilanti、または Alexandros Ypsilantis、1792年12月12日 - 1828年1月31日)は、帝政ロシア軍人少将。秘密結社「フィリキ・エテリア」の指導者として、1821年のギリシャ独立戦争に参加した。
コンスタンチノープル出身。1806年、両親と共にロシアに移住し、キエフに定住した。1808年、ロシア帝国軍に入隊。1812年、クリャスツィ及びポロツク会戦に参加。1813年、中佐としてバウツェン及びドレスデン会戦に参加し、右腕を負傷した。この時の功績により、金製の武器を授与され、大佐に昇進した。1816年にアレクサンドル1世の副官、1817年から第1軽騎兵師団の旅団長となる。
1820年4月、ギリシアの独立をめざす秘密結社「フィリキ・エテリア」に加入する。フィリキ・エテリアは先代のニコラオス・スクファスが死んだ後の指導者を求めていた。エテリアの重鎮であったエマニュエル・クサントスは、自由主義者で軍事的実績もあるイプシランチに注目し、指導者として推挙する。イプシランチの元でフィリキ・エテリアは独立戦争の計画を進めた。イプシランチは1821年2月~3月、バルカン諸民族の対トルコ蜂起を扇動するためにヤシに赴く。ギリシア人に檄文を飛ばし、反乱軍を組織し、3月6日にロシアとトルコの国境であるプルト川を渡り反乱を開始した。3月23日、イプシランチの軍勢はペロポネソス半島南部のカラマタを支配下におさめた。同時に半島各地で呼応した決起が続き、これを記念して3月25日がギリシアの独立記念日となっている。さらにマケドニアクレタ島キプロスなどでの反乱を主導し、ギリシア各地がオスマン帝国の支配下を離れて独立状態に至った。
さらにイプシランチはモルドバに向かい、1821年~1829年のギリシア民族解放革命(汎ギリシャ主義)の契機となるモルドバ蜂起を指揮した。しかし1821年7月、イプシランチの部隊はドラガシャニ付近でトルコ軍に撃破され、彼自身はオーストリア帝国に逃亡し刑務所に入れられた。
1827年、ロシアが干渉しイプシランチは釈放されたものの、翌年に死亡している。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレクサンドル・イプシランティ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.