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アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ : ミニ英和和英辞書
アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ : ウィキペディア日本語版
アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ

アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ、ラテン翻字の例:Aleksey Nikolayevich Tolstoy、1883年1月10日(ユリウス暦1882年12月29日) - 1945年2月23日)はロシアソ連)の小説家。多くの分野で執筆活動を行なったが、専門はSFと歴史小説であった。「伯爵同志」と渾名された。''、ラテン翻字の例:Aleksey Nikolayevich Tolstoy、1883年1月10日(ユリウス暦1882年12月29日) - 1945年2月23日)はロシアソ連)の小説家。多くの分野で執筆活動を行なったが、専門はSFと歴史小説であった。「伯爵同志」と渾名された。
== 生涯 ==
アレクセイ・N・トルストイはニコラエフスク(現在のサラトフ州プガチョフ)で、1882年、トルストイ伯爵家の貧乏な分家に生まれた。彼の父は驃騎兵の任および地主の職から退いたニコライ・アレクサンドロヴィッチ・トルストイ伯爵であり、彼の母は児童作家のアレクサンドラ・レオニエヴナ・ボストロム(トゥルゲネヴァ生まれで、普通アレクサンドラ・トルストイとして知られる人物)であった。アレクセイは一家の第4子であった。彼の母親は、妊娠2ヶ月だった時に情夫のアレクセイ・アポロノヴィッチ・ボストロム (Aleksei Apollonovich Bostrom) と駆け落ちした。当時の離婚に関する法律に従って、有罪のアレクサンドラは再婚を禁じられた。彼女が新生児を自分の手元に置いておく唯一の手段は、子供をボストロムの息子として登録する事だった。かくして、13歳になるまでアレクセイはアレクセイ・ボストロムとして育ち、自分の父親が義父だと疑う事はなかった。1896年にトルストイ、ボストロム両家は官僚的な事務処理に大変な労力を費やして、アレクセイをトルストイ伯爵として登録し直した。それでもなお、彼はアレクセイ・ボストロムを本当の父と見なしていて、ニコライ・トルストイや年上のきょうだい達と顔を合わせる事はほとんどなかった。
1900年にニコライ・トルストイが死に、アレクセイには3万ルーブルと有名な家名が遺された。のちに彼は、トルストイ家の遺産に対してかなりユーモラスな態度を身に付けた。彼はアパートの壁を黒ずんだ肖像画で埋め尽くし、新来者にトルストイ家の祖先たちについて語る事(そうしてから全ての肖像画が近所の古道具屋で適当に買い集めたものであり、祖先の逸話は完全に作り話であると相手に明かす事)で知られるようになった。
アレクセイ・N・トルストイ(以降A.N.トルストイと表記する)初期の短編は過度の自然主義と必然性のないエロティシズムにより、そしてミハイル・アルツィバーシェフ (Mikhail Artsybashev) 言うところの「味」が概して欠如している事により、アレクサンドル・ブローク (Blok) その他の有力な批評家に酷評された。A.N.トルストイ名義で1900年代序盤に出版されたポルノグラフィ的作品には、本人の手によって封印されたものもあると言われる(しかし現在、大部分の批評家はA.N.トルストイがそれらの作者であるかどうか懐疑的である。
A.N.トルストイはボリシェヴィキによる10月革命の最中、1917年にロシアを去って初めはドイツへ、後にはフランスへ移住した。1923年、彼は本国に送還され、最も人気のある作家としてソヴィエト体制に受け容れられた。彼は終生、共産党の忠実な支持者となって、スターリンを賞賛する作品を書き、またマクシム・ゴーリキーと組んで悪名高い旅行記(白海・バルト海運河への旅行を題材としたもの)を書いた。
彼は2編の長大な歴史小説を発表した。すなわち、ピョートル1世の政策をスターリンのそれになぞらえようと努めた『ピョートル一世』(1929年 - 1945年)、そしてロシア内戦を含む1914年から1919年までの時代を描いた『苦難の道』(1922年 - 1941年)である。彼はまた数編の戯曲も書いた。
通常、A.N.トルストイはロシア語サイエンス・フィクションとしては最初の(そして最上の)作品を書いた業績で知られている。火星への旅を扱った『アエリータ』(1923)、そして『ガーリン技師の双曲線』は大衆から絶大な人気を得た。前者は1924年に映画化された(SF映画の先駆けであった)。「アエリータ:火星の女王」の他にも、トルストイの小説を基にした映画はソビエト連邦で数作、公開された。
またA.N.トルストイは『ニキータの幼年時代』を始めとする児童向けの本も数冊したためている(『ニキータの幼年時代』は彼の幼年時代の回想録であるが、この本は時に彼の息子ニキータに関するものだと誤解された。実際には、彼はニキータという名前が好きだから使ったのであり、後年その名を自分の長子にも付けただけの事であった)。彼の児童書で最も著名なものは、イタリアの児童文学『ピノッキオ』を翻案した『ブラチーノの冒険、または黄金の鍵』(1936年)である。その主要登場人物であるブラチーノは、ソヴィエトの人々の間ですぐに大人気となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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