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アレサ・フランクリン : ミニ英和和英辞書
アレサ・フランクリン[らんく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランク : [らんく]
 【名詞】 1. rank 2. (n) rank

アレサ・フランクリン : ウィキペディア日本語版
アレサ・フランクリン[らんく]

アレサ・フランクリン(''Aretha Franklin''、1942年3月25日 - )〔米国など英語圏ではアリーサ と発音するのが一般的である。〕は、アメリカ合衆国の女性ソウル歌手。
ソウル・ミュージック歌手の中でも、サム・クックと共に一際ゴスペル・フィーリングの強い歌唱を持ち味としており、“クイーン・オブ・ソウル”あるいは“レディ・ソウル”の異名を持つ。
1960年代後半の作品群が特に有名で、オーティス・レディングと共にサザン・ソウルの隆盛に寄与した。1987年、女性アーティスト初のロックの殿堂入りを果たした。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位に選ばれている。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第9位に選ばれている。
Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第2位。
== 経歴 ==

メンフィスの生まれ、デトロイト育ち。父C・L・フランクリン説教者として有名な教会牧師であり、母バーバラ・シガーズ・フランクリンは優れたゴスペル歌手であった。両親は、アレサが幼い頃から別居していたが、アレサは父のもとで育てられ、父の教会でゴスペルを歌っていた。
1961年にはコロムビア・レコードからデビューするが、同社は彼女をポピュラー・シンガーとして売り出し、ゴスペル・フィーリングを前面に出さなかった。このためか、当時のアレサのレコードは世間に大きなインパクトを与えるに至らなかった。
1967年に、アトランティック・レコードに移籍。同社のプロデューサーであるジェリー・ウェクスラーは、彼女のゴスペル・フィーリングを前面に押し出す方針を採り、レコーディングを同社の本拠地であるニューヨークではなく、アラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・スタジオで行った。同社は、それまで南部色の強い歌手の作品をメンフィスのスタックス・スタジオでレコーディングしていたが、この頃スタックスとの間に対立が起きた為、その代替地としてフェイムが選ばれたものである。しかし、レコーディング開始後にアレサの夫テッド・ホワイトとフェイムのオーナーの間に論争が起きたのに伴い、ウェクスラーはフェイムでリズム・セクションを務めていたミュージシャンをニューヨークへ連れて行き、レコーディングを続行した〔Jerry Wexler : AllMusic - Biography by Steve Kurutz〕。
この方針は成功を収め、アレサはアトランティックからの第1弾シングル「I Never Loved A Man (The Way I Love You)」とアルバム''I Never Loved A Man The Way I Love You''をヒットさせた。そして、オーティス・レディングのカヴァー「Respect」で全米1位を獲得して、一躍スターの座に躍り出た。その後も''Lady Soul''、''Live at The Fillmore West''などのヒット・アルバムを送り出し、サザン・ソウル歌手としてはオーティス・レディングと人気を二分する存在となった。
代表曲は「Chain Of Fools」(ドン・コヴェイ)、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」(キャロル・キング)、「I Say A Little Prayer」(バート・バカラック)、「Bridge Over Troubled Water」(邦題:明日に架ける橋, サイモン&ガーファンクル)など。「Bridge Over Troubled Water」はゴスペルにアレンジされており、特に当時アパルトヘイトで苦しんだ南アフリカでヒットし、教会で賛美歌として歌われるようになる。
白人歌手の持ち歌のカヴァーも多いが、彼女が歌うと立派に“ソウルの名曲”となる。“単に男女の恋愛を描いた曲でも、アレサが歌うとまるで人類愛を歌っているように聞こえる”といった評価を受けている。
1972年に、ゴスペル・アルバム『Amazing Grace』を発表。
1970年代後半からヒットに恵まれない時期が続く。また、1984年より深刻な飛行機恐怖症に悩まされ、海外公演を行うのが困難になった。しかし、1980年代半ばに「Freeway of Love」、「I Knew You Were Waiting (For Me)」(全米1位、ジョージ・マイケルとのデュエットで、作曲はクライミー・フィッシャーサイモン・クライミー)などがヒット。かなりポップな曲調で賛否両論があるが、人気を復活させたプロデューサー、ナラダ・マイケル・ウォルデンの手腕は高く評価された。
2003年のアルバム『So Damn Happy』をもって引退を表明したが、それを撤回してライブなど精力的に活動している。
2009年のバラク・オバマ大統領の就任式において歌を披露した。
グラミー賞受賞回数は20回で、女性としては21回受賞のアリソン・クラウスに次ぐ記録である。
2005年には、大統領自由勲章を受章。
2009年1月20日、アメリカ合衆国第44代大統領バラク・オバマの就任式式典にて「My Country, 'Tis of Thee」("America")を祝唱した。
アリスタ・レコードとの契約は2003年で終了した模様だが、2007年には過去のデュエット曲に新曲2曲を加えたコンピレーションアルバム『Jewels in the Clown』を発売。2008年には、書店チェーンのボーダーズ独占で、クリスマス・アルバム『This Christmas, Aretha』をリリースした。その後、自身のインディーズレーベルAretha Recordsを立ち上げ、2011年に『A Woman, Falling Out of Love』を発売した〔Aretha Franklin to release first album in eight years | Music | guardian.co.uk 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレサ・フランクリン」の詳細全文を読む




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