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アレックス・オブライエン(Alex O'Brien, 1970年3月7日 - )は、アメリカ・テキサス州アマリロ出身の元男子プロテニス選手。1999年の全米オープン男子ダブルスで、セバスチャン・ラルー(カナダ)とペアを組んで優勝した。4大大会男子ダブルスでは、全豪オープンで1996年・1997年の2年連続準優勝、全米オープンで1995年の準優勝もあった。自己最高ランキングはシングルス30位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルスで1999年全米オープンを含む13勝を挙げた。 ==経歴== 1992年にプロ入り。1994年8月のシンシナティ・マスターズで、サンドン・ストール(オーストラリア)とペアを組み、男子ツアー大会でダブルス初優勝を果たす。1995年の全米オープンで、オブライエンはストールと組んで4大大会男子ダブルス決勝に初進出したが、オーストラリアペアのマーク・ウッドフォード&トッド・ウッドブリッジ組(「ウッディーズ」の愛称で知られる)に 3-6, 3-6 で敗れて準優勝になった。1996年から、オブライエンは大半のトーナメントでセバスチャン・ラルーとペアを組むようになり、このコンビで多くの好成績を出した。2人は全豪オープンの男子ダブルスで1996年・1997年の2年連続決勝進出を果たすが、1996年はステファン・エドベリ(スウェーデン)&ペトル・コルダ(チェコ)組、1997年は「ウッディーズ」に敗れ、2年連続で準優勝止まりに終わった。オブライエンとラルーは、1996年の男子テニスツアー年間最終戦・ATPツアー選手権決勝で「ウッディーズ」に敗れた準優勝もある。 1998年の前半、オブライエンはしばらくラルーと離れて、ジョナサン・スターク(同じアメリカの選手)やバイロン・ブラック(ジンバブエ)などとペアを組んでトーナメントに出場していた。同年秋にオブライエンとラルーはコンビを復活させ、2人は1999年のシーズンに最盛期を迎える。1999年全米オープン男子ダブルスで、2人は決勝でインドペアのマヘシュ・ブパシ&リーンダー・パエス組を 7-6, 6-4 で破り、4大大会初優勝を飾った。ラルーにとっては、全米決勝はサンドン・ストールと組んだ1995年以来4年ぶり2度目だった。2人は1996年・1997年の全豪オープンで実現できなかった4大大会男子ダブルス優勝を、2年半ぶりの舞台で実現させた。年末のATPツアー選手権でも、オブライエンとラルーは決勝でブパシ&パエス組に連勝し、3年前に「ウッディーズ」に阻まれた最終戦優勝を果たした。 2000年から、オブライエンは同じアメリカのジャレッド・パーマーとペアを組むようになった。2000年5月8日付で、アレックス・オブライエンは男子ツアーのダブルスランキング「1位」になる。オブライエンとパーマーは、2000年全米オープン準決勝でレイトン・ヒューイット(オーストラリア)&マックス・ミルヌイ(ベラルーシ)組に敗れた。2人は全米オープン終了後のシドニー五輪の男子ダブルスにも出場したが、ここでは早期敗退に終わり、2回戦でバハマ代表のマーク・ノールズ&マーク・メルクライン組に敗退した。2001年2月のテネシー州メンフィス大会を最後に、彼は男子ツアー大会のダブルス決勝から遠ざかり、ツアー成績が急降下した。2003年10月に33歳で現役を引退した後は、選手時代の1998年に故郷のテキサス州アマリロに設立した「アレックス・オブライエン・ユーステニス財団」でジュニア選手の育成に携わり、「リトルフィールド・ランチ」というステーキレストランも経営している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレックス・オブライエン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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