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アロイス・エリアーシ(Alois Eliáš, 1890年9月29日 – 1942年6月19日)は、チェコスロヴァキアの軍人・政治家。ベーメン・メーレン保護領時代のチェコで首相を務めた。 == 略歴 == オーストリア=ハンガリー帝国時代のプラハに生まれる。1908年に現在のプラハ・チェコ工科大学へ入学する。第一次世界大戦では、はじめオーストリア=ハンガリー帝国軍の兵士として東部戦線で戦ったが、ロシア帝国軍の捕虜となり、チェコ軍団(チェコスロヴァキア独立を目指してオーストリアと戦った)の一員に組み入れられ、フランスで活動した。戦後、オーストリア=ハンガリー帝国の敗戦に伴って独立したチェコスロヴァキアに帰国する。エリアーシはチェコスロヴァキア独立の英雄の一人として、チェコスロヴァキア軍の将軍となった。1921年から1923年にかけてはパリの軍事大学で学ぶ。1929年から1931年にかけては参謀本部で勤務している。国際連盟で行われたジュネーブ軍縮会議にもチェコ代表団として参加している。1931年からホムトフの歩兵旅団長、1933年からリトミェルジツェの師団長に昇進し、1935年からはトレンチンで軍司令官となる。 その頃、ドイツではアドルフ・ヒトラーの政権が成立し、対外進出策を推し進めていた。1938年にはオーストリア併合が行われ、つづいてヒトラーの眼はチェコスロヴァキア領のズデーテン地方(ドイツ系住民が大多数を占めていた)に向いた。1938年9月にドイツ・イタリア・イギリス・フランスの首脳によるミュンヘン会談があり、ズデーテン地方のドイツ領有が認められた。 この会談を受け入れられないとしてエドヴァルド・ベネシュ大統領が辞任したが、後継のエミール・ハーハ大統領は、ドイツの要求をすべて受け入れた。そしてルドルフ・ベラン内閣を組閣させ、エリアーシはベラン内閣の交通相として入閣した。さらに1939年3月には独立スロバキアが分離し、ボヘミア・モラヴィア地方にはドイツ軍が進駐することとなる(ベーメン・メーレン保護領)。ドイツからは総督としてコンスタンティン・フォン・ノイラート男爵が派遣された。そんな困難な状況の中、ハーハ大統領は、1939年4月27日にエリアーシを首相に任命する。エリアーゼは表向き親独の態度を取ったが、裏では反ナチの地下組織と接触して、ノイラート治下のベーメン・メーレン保護領でデモなどを多発させて、ドイツ行政を混乱させようとした。融和的なノイラートの下での反ナチ工作は一定の成功を収め、ベーメン・メーレン保護領の兵器生産率を20%近く落とした。 業を煮やしたヒトラーは、残虐で知られる国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒSS大将をベーメン・メーレン保護領副総督に命じ、同地の実権をノイラートからハイドリヒへ移させた。ハイドリヒは1941年9月27日にプラハに到着するや戒厳令を敷き、反ナチ分子を徹底的に捜索させて逮捕させた。さらに翌28日には首相であるエリアーシの逮捕も命じた。その後、エリアーシはナチスの見せしめ裁判にかけられ、死刑を宣告されたが、ヒトラーの命令で執行は停止されていた。しかし1942年6月に、イギリスから派遣されたチェコ人工作部隊員の襲撃が元でハイドリヒが死亡した。これに激怒したヒトラーは、チェコ人への報復の一環としてエリアーシをコビリスキー刑場において銃殺刑に処した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アロイス・エリアーシ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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