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安藤 勝己(あんどう かつみ、1960年3月28日〔 - )は日本の元騎手、現在は競馬評論家。 1976年に公営・笠松競馬場でデビュー。1978年に初めて同場の最多勝利騎手となって以来、通算19回その地位に就き、「アンカツ」の愛称と共に全国的にその名を知られた。1980年に日本中央競馬会(JRA)で初騎乗。1990年代後半より中央へのスポット参戦が頻繁となり、2003年に正式に移籍。以後JRA所属馬で数々のGI競走を制したほか、2007年、2009年にはJRA最高勝率騎手のタイトルを獲得した。2013年に騎手を引退。通算成績は20852戦4464勝(うちJRA6593戦1111勝、うちGI・JpnI競走22勝を含む重賞81勝。地方通算14259戦3353勝、うちGI・JpnI競走6勝を含むダートグレード競走36勝)。彼の中央移籍を契機として数々の地方競馬出身騎手がそのあとに続き、地方から中央への道筋を開いた先駆者と評される〔『優駿』2013年3月号、p.153〕。 同じく笠松からJRA騎手となった安藤光彰は兄〔。大井競馬所属騎手の安藤洋一は甥。 ''※本項ではほかの安藤姓の競馬関係者と区別するため、とくに断りのない限り安藤勝己を「勝己」と表記する。'' == 来歴 == === 生い立ち === 1960年、愛知県一宮市に生まれる〔安藤(2003)pp.12-22〕。和食の板前であった父親は、後に安藤の師匠となる吉田秋好の幼なじみであった。勝己が小学校3、4年生のころには笠松競馬場近くの店に勤務しており、このころに勝己は父親とはじめて笠松競馬場を訪れた〔安藤(2003)pp.30-36〕。じきに兄・光彰が騎手見習いのような立場として吉田厩舎に出入りするようになり、これに伴って勝己も厩舎を頻繁に訪れ、馬に惹かれるようになっていった〔。当時、兄弟は母親と岐阜県大垣市で暮らしていたが、中学1年次の夏休み以降は笠松に居着き、そのまま厩舎の住み込みとなった〔。なお、出生からの姓は「北浦」であったが、中学2年次に両親が離婚(後に復縁)したことに伴い「安藤」姓となった〔。 1975年4月、地方競馬の騎手養成所・地方競馬教養センター(栃木県那須市)に入所〔安藤(2003)pp.252-255〕。教養センターの同期生には、同じく笠松で活躍し「身内同然の仲」となる濱口楠彦や、大井競馬で活躍することになる早田秀治がおり、早田とは特に気が合う仲であったという〔。環境の変化と座学の苦痛で胃潰瘍になり、2~3カ月の休養も経験したが、規定の1年半で卒業し〔安藤(2003)pp.60-68〕、のち騎手として笠松に戻った。騎手デビューに際しては、年功序列を重んじる師の吉田から「最初は光彰が7、勝己が3の割合で乗せる。1年経ったら、上手い方に多く乗せるよう考え直す。兄弟同士、負けん気で頑張れ」と訓示されたという〔安藤(2003)pp.70-78〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安藤勝己」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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