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ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデ(, 1772年8月2日 - 1804年3月21日)は、フランスの貴族で、フランス革命期の。アンギャン公の称号で呼ばれる。 中立のバーデン選帝侯国で潜伏中にフランス軍に王党派幹部として逮捕され、軍事裁判で死刑判決をうけて処刑された、いわゆるアンギャン公事件の被害者であるが、これは冤罪事件として知られる。 == 略歴 == ブルボン家の支流ブルボン=コンデ家の出身で、コンデ公ルイ5世ジョゼフの息子ブルボン公ルイ・アンリ(後のルイ6世アンリ)とオルレアン公ルイ・フィリップ1世の娘バティルドの一人息子として生まれた。 バスティーユ襲撃後、フランス革命戦争にも参加したが、亡命貴族軍は解散を強いられた。アンギャン公はロアン枢機卿の姪シャルロット・ド・ロアンと結婚し、その縁で枢機卿の邸宅があったバーデン選帝侯国へ父や祖父とは別に亡命し、平時のような生活を送った。 ところがナポレオン・ボナパルトに対する暗殺計画(カドゥーダルの陰謀)の報復として、陰謀を企てた首謀者の一人であるとアンギャン公は誤認され、1804年に越境侵入したフランス軍に捕らえられた。同年3月20日にパリ郊外のヴァンセンヌ城まで移送された後、軍事裁判にかけられる。判事員の7人の大佐の前に連行され、死刑判決を受けた。十分な反論も、上層部への報告もなく、1時間後には素早く銃殺処刑が実行された。 ルイ・アントワーヌの処刑は、その決定者が不明で、歴史のミステリーとなっている。直接的にはナポレオン本人に対する嫌疑は希薄で、ナポレオンを誤った方向に導いたタレーランやフーシェ、ミュラによる陰謀説や、逮捕を指揮したサヴァリー将軍やユラン伯爵、レニエ司法大臣などの関与をにおわせる状況証拠がいくつかあるだけである。当事者達は互いに非難しあって矛盾する証言をしており、核心である誰が処刑を命じたかという部分がよく分かっていない。後に判明したところでは、ルイ・アントワーヌは王党派による陰謀には荷担していなかったが、結果的に王党派によるナポレオン暗殺未遂の黒幕として挙げられた。アンギャン公はうやむやのうちに悲劇的な最期を遂げることになったわけである。 しかしこの処刑は図らずも、王族殺しの罪をナポレオンに着せることになり、欧州諸国の君主たちの敵意を呼び覚まし、ナポレオンの個人的な罪として彼の生涯の汚点としてついて回った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Louis Antoine, Duke of Enghien 」があります。 スポンサード リンク
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