|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
アングロ=イタリアン・カップ(Anglo-Italian Cup)またはアングロ=イタリアン・インター=リーグ・クラブズ・コンペティション(Anglo-Italian Inter-League Clubs Competition)は、1970年から1996年までイングランドとイタリアのクラブ間で断続的に開催されていたサッカー大会である。 先行するアングロ=イタリアン・リーグカップ(1969年-1971年、1975年-1976年)の成功を受けて1970年にジジ・ペロナーチェによって大会が創設され、1973年までプロによるトーナメントとして行われた。当時、この大会はファン同士の暴力が蔓延する大会という世評を受けた。〔〔1976年にセミプロのトーナメントとして復活し、アリタリア・チャレンジカップ(Alitalia Challenge Cup、1978年-1980年)、タルボット・チャレンジカップ(Talbot Challenge Cup、1981年)、ジジ・ペロナーチェ・メモリアル(Gigi Peronace Memorial、1982年-1986年)と大会名を変えて1986年に廃止されるまで続いた。1992年にフルメンバーズカップ(1986年-1992年)に代わる格好で復活し、2部リーグのクラブが参加するプロ大会として4シーズン行われたが、過密日程のため廃止された。トロフィーは木製の台座に取り付けられた56センチの金の賞杯だった。〔〔 ==歴史== ===プロ時代=== 1967年よりフットボールリーグカップの優勝チームにはインターシティーズ・フェアーズカップ出場資格が与えられるようになった。しかし同年の優勝チームだったクイーンズ・パーク・レンジャーズは当時サードディヴィジョン(3部)に所属しており、UEFAは3部のチームがインターシティーズ・フェアーズカップに出場することを認めなかった。1969年には、また別のサードディヴィジョンのクラブであるスウィンドン・タウンがフットボールリーグカップに優勝した。この年には規則が障害となりインターシティーズ・フェアーズカップに参加できなかったスウィンドンへの補償としてアングロ=イタリアン・リーグカップが組織され、〔スウィンドンは同年のコッパ・イタリアに優勝したASローマとの2試合制の試合に勝利した。同大会の人気を受けて、〔また1970 FIFAワールドカップによって生じる長いオフシーズン期間に選手たちに支払う賃金をまかなうための手段として、〔翌1970年に第1回のアングロ=イタリアン・カップが始まった。第1回大会にはイングランドから6チーム(スウィンドン・タウン、シェフィールド・ウェンズデイ、ミドルスブラ、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、サンダーランド、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ)、イタリアから6チーム(ナポリ、ユヴェントス、ローマ、フィオレンティーナ、ラツィオ、ヴィチェンツァ)が参加した。〔これらのチームはそれぞれイングランドとイタリアが2チームずつからなる3つのグループに分けられ、勝利には2ポイント、引き分けには1ポイント、さらに1ゴールごとに1ポイントの勝ち点が与えられた。〔決勝には国別に最良の成績だった2チームが進む。1970年5月28日にスタディオ・サン・パオロで行われた決勝にはスウィンドン・タウンとナポリが勝ち上がった。63分にスウィンドンが追加点を入れて3-0としたころからホーム側のファンが暴れ、79分に試合が中断されたが、スウィンドンは第1回大会の優勝チームとなった。〔〔 1971年はグループ戦で両国ごとに首位だったブラックプールとボローニャが、1971年6月12日にスタディオ・レナト・ダッラーラで行われる決勝に進んだ。1-1で同点のまま延長戦に入り、ミッキー・バーンズの決勝点によりブラックプールが優勝した。ブラックプールは翌1972年も決勝に進出したがタイトル防衛に失敗し、ローマが3-1で勝った。〔1973年はゴールごとへの勝ち点加算がなくなり、1973年6月3日にスタディオ・アルテミオ・フランキで行われた決勝ではニューカッスル・ユナイテッドがフィオレンティーナを2-1で破った。関心の欠如から大会は存続不可能になり、〔セミプロの大会として1976年に復活するまでの一時期存在しなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アングロ=イタリアン・カップ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|