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アンタルヤ(Antalya)はトルコ南西部アンタルヤ県の県都。地中海に面し、山に囲まれて切り立った海岸線を持つ。かつてはアッタリア(Attalia)、アダリア(Adalia)などと呼ばれた。1970年代以降は観光都市としての投資が盛んである。 == 歴史 == この地にいつから人々が定住したのかは定かではないが、ペルガモン王国のアッタロス2世がその強大な海軍の基地として紀元前150年にこの地を選びアッタリアと名づけた、と信じられている。一方で、2008年に行われた発掘の結果、紀元前3世紀の遺跡が発見された。アッタロス3世が死ぬと紀元前133年、この地は共和政ローマの版図に入った。この時期にアッタリアは繁栄を迎える。 2世紀、キリスト教がこの地に及び、使徒行伝に記されているようにパウロがアッタリアを訪れた。ビザンティン帝国の時代にテマが始まると、帝国の主要な都市の1つとなり、の:en:Karabisianoi()に海軍の本部が置かれ小アジアとエーゲ海を管轄した。ヨハネス2世コムネノスの時代には海からでしか連絡できない孤立した前哨基地としてトルコ人に対峙せざるを得ない事態に陥ったが、その後、トルコ人を駆逐、陸路を回復した。 13世紀、セルジューク朝に征服され、その後、オスマン帝国の支配を受けるまで、アッタリアはテケ侯国の都となる。1335年からの5年間、イブン=バットゥータはアッタリアを訪れている。またオスマン帝国の旅行家・エヴリヤ・チェレビ(Evliyâ Çelebi)も17世紀後半にアッタリアを旅し、狭い通りに家が隙間無く建て込んでいる様を記している。この頃、町は城壁を越えて広がり、港には200艘を越える船が係留されていた。 19世紀に入るとオスマン帝国の知事よりも地主が力を蓄えるようになり、それは近年まで続いた。20世紀になるとバルカン半島やカフカースからトルコ人が続々とアンタルヤに移り住み人口が急増した。1911年までに市の人口は25,000人を数えた。キリスト教徒やユダヤ人も移り住んできたが、彼らの住居は区切られた居住区に設けられた。アダリアと呼ばれたその時代は、町が乱雑に開発され、後退を示した時であった。アダリアを訪れる人々は城壁とその外の遊歩道を楽しみ、上流階級もまた城壁の外に居を構えた。 第一次世界大戦末期からアンタルヤはイタリア軍の占領を受けるが、1923年にトルコ共和国が発足し、駆逐した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンタルヤ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Antalya 」があります。 スポンサード リンク
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