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アンティオキア公国は、第1回十字軍が聖地に建設した十字軍国家のひとつ。シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とした。 == アンティオキア公国の建設と拡大 == 第1回十字軍以前は、アンティオキアはセルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンが治める難攻不落の城塞都市だったが、セルジューク朝征服以前からのギリシア人住民も多く、東ローマ帝国はここを帝国固有の領土と考え〔古代においてはローマ帝国領であり、7世紀にイスラム帝国に奪われたものの10世紀からセルジューク朝の侵攻を受けた11世紀後半までは東ローマ帝国がイスラム勢力から奪回・領有していた。〕、セルジューク朝から回復しようと考えていた。第1回十字軍遠征の際、アンティオキア攻囲戦において活躍した南イタリアのノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンは攻略中からこの都市の領有の希望を公言するようになり、1098年、半年に渡る包囲の末にアンティオキアが陥落し市民の虐殺と略奪が終わると、この地の君主(公)に就任し、アンティキアを首都とするアンティオキア公国が建設された。ボエモンは十字軍の本来の目的であったエルサレム攻略への参加を止め、アンティオキア公国の確立に専念することになる。 ボエモンは1100年に小アジア内陸のセルジューク朝系ムスリム政権ダニシュメンド朝の王ダニシュメンド・ガーズィーを討とうとして、逆にダニシュメンドの捕虜となってしまうと、甥のタンクレードが摂政に就任した。ボエモンは身代金を払い解放されると、同じ十字軍国家のエデッサ伯国と協力しシリア北部のハッラーンを制圧し、セルジューク朝の分裂に乗じモースルやバグダードをうかがう勢いだったが、モースルのムスリム軍に完敗し退却を余儀なくされた(ハッラーンの戦い)。さらにアンティオキアのあり方をめぐってアンティオキアの宗主権を主張する東ローマ帝国の圧迫を受けたため、援軍を求めてイタリアに帰国してしまい、再びタンクレードが摂政となった。 1108年にはボエモン1世がマケドニアで東ローマ皇帝アレクシオス1世とデヴォル条約を結びアンティオキア公国を東ローマ帝国の臣下とすることを約束したが、タンクレードはこれを拒み独立国としてあり続けることを選んだ。1111年ボエモンがイタリアで死ぬと、タンクレードはボエモンの遺児(ボエモン2世)を立てて摂政を続けた。タンクレードはエデッサ伯国と協力して東ローマ帝国からラタキアを奪い、バニヤースの南をトリポリ伯国との境界とした。北シリアの主要都市で内陸に隣接するアレッポにはシリア・セルジューク朝のリドワーン王が陣取っていたが、これと戦って破り、オロンテス川の中流域とアレッポを取り巻く周囲に至るまでの内陸側をすべて征服し、シリアの強国として君臨するアンティオキア公国の事実上の建国者として活躍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンティオキア公国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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