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アンティミウス ( リダイレクト:アンテミウス ) : ウィキペディア日本語版
アンテミウス

プロコピオス・アンテミウス(Procopius Anthemius〔'':en:Prosopography of the Later Roman Empire'' II.96.〕、420年頃 – 472年7月11日)は西ローマ皇帝(在位:467年 - 472年)でホノリウスから数えて9人目の皇帝。東ローマ皇帝レオ1世の指名によって西ローマ皇帝に即位したアンテミウス帝は帝国が直面していた二つの軍事的脅威に対処しようと試みた。東西両帝国共同で北アフリカを支配する強大なガイセリック王のヴァンダル族を攻撃するが惨敗に終わり、次いでピレネー山脈にまたがる領域を占拠するエウリック王の西ゴート族を攻撃するもこれも失敗した。アンテミウス帝は西ローマ帝国の実力者であるリキメル将軍と権力争いを起こし、敗れて殺害された。
== 生涯 ==

===出自と官歴===
アンテミウスは東ローマ帝国において文武両官の高位を与えられてきた著名な家門に属していた。母は346年にを務めたの孫にあたり、母方の祖父は404年から415年に東方民政総督を務め、405年には執政官に選ばれたである〔Morris&Jones&Martindale 1992,p.697.〕。彼の父は422年から424年に東方軍区長官(''magister militum per Orientem'')を務めたであり、ウァレンス帝に対する僭称皇帝プロコピウスコンスタンティヌス1世の甥)の後裔にあたる人物であった。
アンテミウスは420年頃にコンスタンティノープルに生まれ、長じてアレクサンドリアに渡り、新プラトン主義の哲学者の元で学び、同門には(イリュリクム軍区長官兼民政総督)、(東方民政総督および467年の執政官)、(470年の執政官および)そして(異教徒の詩人)がいた〔O'Meara, Dominic, ''Platonopolis: Platonic Political Philosophy in Late Antiquity'', Oxford University Press, 2003, ISBN 0-19-925758-2, p. 21.〕。
453年に彼は東ローマ皇帝マルキアヌス(在位:450年 - 457年)の皇女と結婚した。この結婚の後に彼はに昇格し、453年のフン王アッティラの死後、荒廃するに任されていたダーヌビアン辺境地域の防衛線再建に派遣された。454年に彼はコンスタンティノープルに召喚され、454年か455年にパトリキウス(貴族、名誉顕官)の称号が与えられ、定員2名の東方軍区長官職の一人に任命された。455年に彼は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の同僚執政官たる名誉に浴した。
マルキアヌス帝の皇女との結婚、軍の要職への昇進(軍事行動よりも管理業務が主であったが)、パトリキウスの称号そして軍職の最高位、西ローマ皇帝の同僚たる執政官職といった一連の名誉ある出来事はマルキアヌス帝がアンテミウスを東西いずれかの次期ローマ皇帝候補としていたことを示唆する。この仮定は6世紀の歴史家がマルキアヌス帝がアウィトゥス帝の次の西ローマ皇帝として彼を指名したと誤って記述していることによっても補強される〔John Malalas, ''Chronicon'', 368–369, cited in Mathisen.〕。
456年10月に西ローマ皇帝アウィトゥスは廃位され、マルキアヌス帝はおそらくはアンテミウスをその後継者にしようと考えたが、457年1月に彼を同僚皇帝に指名する前に死去してしまった。この結果、両帝国の皇帝が空位となり、西帝国では二人の将軍、リキメルマヨリアヌス、東帝国ではアラン人マギステル・ミリトゥム(軍務長官)がおのおの実権を握った。蛮族出身で皇帝に即位することはできないアスパルは高い権威を持ち自立して行動しそうなアンテミウスの即位に反対し、より低い階級の軍人レオを皇帝に選出させた。西帝国でも蛮族出身のリキメルは即位できず、紫衣を受けたのはマヨリアヌスであった。
アンテミウスは軍務長官となり新帝レオ1世に仕え、国境を脅かす蛮族から帝国を守る任務に就いた。460年頃に彼は率いる東ゴート族イリュリクムで戦い勝利した。466年から467年の冬にはドナウ川を渡りダキアを荒らした率いるフン族を撃破している。セルディカ(ソフィア)を占領した襲撃者たちはアンテミウスに包囲され、飢えに苦しんだフン族が町を出て野戦をしかけた。フン族出身の騎兵指揮官の裏切りにもかかわらず、アンテミウスの歩兵部隊がこれに打ち勝った。オルミダクが降伏を申し出ると、アンテミウスは逃亡兵を引き渡すよう要求した〔Thompson, Edward Arthur, ''The Huns'', Blackwell Publishing, 1996, ISBN 0-631-21443-7, p. 170.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Anthemius 」があります。




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