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アンディ・パフコー : ミニ英和和英辞書
アンディ・パフコー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アンディ・パフコー ( リダイレクト:アンディ・パフコ ) : ウィキペディア日本語版
アンディ・パフコ[ちょうおん]

アンディ・パフコAndrew "Andy" Pafko , 1921年2月25日 - 2013年10月8日)は、1940~1950年代に活躍したアメリカ合衆国ウィスコンシン州ボーイスビル出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。
ニックネームは"Handy Andy"(ハンディ・アンディ)、"Pruschka"(プルーシュカ)。主に1940年代のカブスで攻守に優れた活躍をした選手。カブスの20世紀のオールセンチュリー・チームの一員に選ばれている。
==来歴・人物==

=== 球歴 ===
1941年にウィスコンシン州のグリーンベイ球団からシカゴ・カブスに入団、メジャーリーグにデビューしたのは2年後の1943年で、この年は13試合に出場し58打数22安打をマークした。翌年からカブスの中堅手としてレギュラーに定着し、3年目の1945年シーズンには12本塁打、110打点を挙げる活躍をし、自身初めてのオールスターゲーム出場を果たすとともに、この年のMVP投票で4位に入った。この年にはワールドシリーズにも出場しているが、カブスは4勝3敗で敗退している。
戦後の1947年から1950年まで、パフコは4年続けてオールスターゲームに出場したが、1948年のオールスターゲームは、外野手ではなく『三塁手』として選出され、『外野手と内野手の両方でオールスターゲームに選出された』数少ない選手の一人になっている。この年パフコは、当時のカブスの名三塁手だったスタン・ハックの引退を受け、その穴埋めのために外野からコンバートされて三塁を守っていた。同年は打撃面が好調で、最終的なシーズン打率は.312、また自身2度目の100打点以上を記録している。1950年シーズンにはリーグ2位の36本塁打を放ち、長打率でもリーグ2位を記録した。"Handy Andy"というニックネームは、外野でも内野でも守れたパフコに対し、監督のチャーリー・グリムが名づけたものである。
1951年シーズン途中に4対4の大型トレードでブルックリン・ドジャースに移籍。その後1953年にミルウォーキー・ブレーブスに移り、引退までブレーブスに在籍した。1957年には自身4度目となるワールドシリーズ出場を果たし、36歳にしてようやくシリーズ制覇を経験することになった。1959年を最後に現役を引退し、引退後は一時期カロライナリーグなどでマイナーリーグの監督をつとめた。20世紀の終わりに、シカゴ・カブスが球団の「20世紀オールセンチュリー・チーム」を選出した際、パフコはその一員として選出されている。
2008年6月12日リグレーフィールドで行われたブレーブス対カブスの試合では、シカゴの放送局WGNが野球のテレビ中継を始めた1948年当時を復刻するイベント(両チームも1948年のユニフォームを着て試合をした)が行われた。このイベントでパフコは久々に観衆の前に登場し、セブンス・イニング・ストレッチで"Take Me Out to the Ball Game"を歌い上げている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Andy Pafko 」があります。




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