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アントニア・ホワイト(Antonia White 本名はEirine Botting、1889年3月1日 - 1980年4月10日)は、イギリスの女性小説家である。代表作に自伝的な小説『五月の霜』''Frost in May'' (1933年)、''The Lost Traveller'' (1950年) 、''Sugar House'' (1952年)、''Beyond the Glass''(1954年)がある。 == 生涯== 1889年3月1日、父セシル・ボッティング(Cecil Botting)と、母クリスティン (Christine) のもとロンドンに生まれる。兄弟姉妹はない。父はロンドンの中等学校、セント・ポール学院でラテン語・ギリシア語の教師をしており〔Jane Dunn,''Antonia White a Life'', Jonathan Cape London, 1998〕、ラテン語とギリシア語の教科書も書いている。父は娘が男の子であったら、と強く願っていたという。 セシルは娘が古典学者となることを望んでいて、アントニアが4歳になると自ら古典語を教えた〔Antonia White, ''As Once in May'', Virago Press, 1983 〕。両親はもともと英国国教会の信者であったが、アントニアが7歳の時に娘ともどもカトリックに改宗した〔Jane Dunn,''Antonia White a Life'', Jonathan Cape London, 1998〕。 アントニア・ホワイトは7歳の時、ローハンプトンの寄宿制女子校、聖心女子学校に入学した。この女学校は聖心修道会が経営し、生徒もヨーロッパ各国のカトリックの上流階級の子女が大半を占めていた。カトリックの教えに基づく厳しい教育が実践されており、この時の経験は処女作『五月の霜』の執筆に大きな影響を与えた。15歳の時、父の誕生日プレゼントにするために書いた小説が学校から「不道徳である」とされ、家庭の経済事情もあったことから聖心女子学校を退学した。その後、父が教鞭をとるセント・ポール学院の姉妹校、セント・ポール女子学院に通う。この時の経験は小説''The Lost Traveller'' に反映されている。一時は大学進学を目指していたが、知人のすすめにより王立演劇学校に数ヶ月間通った後、旅回りの劇団に女優として参加する〔Antonia White, ''As Once in May'', Virago Press, 1983 〕。 1921年には貴族出身のレジー・グリーン・ウィルキンソン(Reggie Green-Wilkinson)と結婚した。しかし、この結婚は「白い結婚」であり、2年後に二人は離婚した。結婚の不成就が証明されたことはアントニアにとり精神的な負担が大きかった。1923年には軍人のロバート・レッグ(Robert Legg)と婚約するが、その後アントニアは一時精神の不調をきたし、1923年11月にロンドンの公立の精神病院、ベドラムに入院する。入院期間は約半年間に及び、その間にロバート・レッグとの婚約は破棄された。最初の夫との離婚、ベドラムへの入院経験については小説''Beyond the Glass''に反映されている。退院後もアントニアは生涯、精神の不調に悩まされた。その後、コピーライターとして広告代理店に就職する〔Jane Dunn,''Antonia White a Life'', Jonathan Cape London, 1998〕。 1925年にアントニア・ホワイトは内務省の役人、エリック・アーンショー・スミス(Eric Earnshaw Smith)と二度目の結婚をする〔Jane Dunn,''Antonia White a Life'', Jonathan Cape London, 1998〕。夫婦関係は良好であったが夫は同性愛的性向があり、夫婦それぞれが家庭外に情事を持ち、アントニアが他の男性の子を妊娠したため1930年に離婚した。 1929年に採鉱学者、ルドルフ・グロソップ(Rudolph Glossop)との間に長女、スーザン・チティ(Susan Chitty)をもうける。 1930年に広告代理店の同僚、トム・ホプキンソン(Tom Hopkinson)と三度目の結婚をし、1931年に次女リンダル・ホプキンソン(Lindall Hopkinson)をもうけるが、1938年に離婚した。 アントニア・ホワイトは広告代理店に勤務したほか、一時的に大学で教鞭をとったこともある〔Jane Dunn,''Antonia White a Life'', Jonathan Cape London, 1998〕。1980年にサセックスの修道院付属病院で亡くなった。 二人の娘はそれぞれに母親との関係について著作がある。長女、スーザン・チティは''Now to My Mother''次女、リンダル・ホプキンソンは ''Nothing to Forgive'' を出版している。 アントニアは哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)と二十台後半のころ、交際していた。また、作家ジューナ・バーンズ(Djun aBarnes)や前衛美術の収集家であったペギー・グッゲンハイム(Peggie Guggenheim)とも親交があった〔Jane Dunn,''Antonia White a Life'', Jonathan Cape London, 1998〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントニア・ホワイト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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