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アントニウス・ピウス ( リダイレクト:アントニヌス・ピウス ) : ウィキペディア日本語版
アントニヌス・ピウス

ティトゥス・フルウィウス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス(〔Weigel, ''Antoninus Pius''〕〔In Classical Latin, Antoninus' name would be inscribed as TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS.〕、86年9月19日 - 161年3月7日)は、第15代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の第4代皇帝。彼はアウレリウス氏族の出身者として最初の皇帝であり、また皇妃大ファウスティナを通じてネルウァ=アントニヌス朝と外戚関係を持っていた〔Bowman, pg. 150〕。妻の甥であるマルクス・アウレリウスと娘の小ファウスティナを結婚させた上でアウレリウスを後継者とし、娘と甥の間に生まれた孫コンモドゥスにまで3代に亘る家族間での帝位継承の基盤を作った。
こうした点から一部の歴史学者は、王朝の支配権がトラヤヌスの王統から外戚であるアントニヌスの一族へと移動したと見なし、祖父アントニヌスから孫コンモドゥスまでの3代をアントニヌス朝と別称している。
「アントニヌス・ピウス」(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌス元老院から憎まれていたにもかかわらず、神として祭るように奔走したことが美談として受け取られたことに由来する〔Birley, pg. 54; Dio, 70:1:2〕。しかし『ローマ皇帝群像』はハドリアヌス帝によって処刑されることになっていた人々を救ったためであると主張している〔Birley, pg. 55; Historia Augusta, ''Life of Hadrian'' 24.4〕。
==生い立ち==

===出自===
西暦86年9月19日執政官経験を持つ元老院議員ティトゥス・アウレリウス・フルウィウスとアリア・ファディラの一人息子としてラウィニウムに生まれる〔Bowman, pg. 150〕〔Harvey, Paul B., ''Religion in republican Italy'', Cambridge University Press, 2006, pg. 134; Canduci, pg. 39〕。父の故郷は南ガリアの殖民市コローニア・ネマウサの出身で、同地はガリア遠征時にローマ人の退役兵が入植した歴史を持つ古い殖民市である〔Bury, pg. 523〕。父は祖父と共に早くに亡くなってしまい、母方の祖父グナエウス・アリウス・アントニヌスに引き取られて養育され〔Bowman, pg. 150〕、祖父の親友は『博物誌』の著者である大プリニウスであった。また母は後に別の貴族の男性と再婚して二人の娘を儲け、異父妹を持つ事になった〔Birley, pg. 242; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 1:6〕。フルウィウス家、アントニヌス家と二つの家督と財産を受け継いだ事はアントニヌスにとって大きな利点となった。
111年、宮殿や元老院に出入りする様になったアントニヌスは財務官(クァエストル)に任命されて元老院議席を得た〔Traver, Andrew G., ''From polis to empire, the ancient world, c. 800 B.C.-A.D. 500'', (2002) pg. 33; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 2:9〕。続く117年には法務官に叙任され、上流貴族としての立場を着々と継承していった〔Traver, Andrew G., ''From polis to empire, the ancient world, c. 800 B.C.-A.D. 500'', (2002) pg. 33; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 2:9〕。この間となる110年から115年頃には私生活でも当時の王朝であるネルウァ=アントニヌス朝の一員であった大ファウスティナと結婚している。彼女の父は執政官マルクス・アンニウス・ウェルスであり〔Bowman, pg. 150〕、母ルピリア・ファウスティナはトラヤヌス帝の大姪にして、ハドリアヌス帝の皇妃ウィビア・サビナの従姉妹であった。
大ファウスティナとの結婚は政略ではなく自由恋愛であったと言われ、仲睦まじい夫婦であった。後に大ファウスティナが皇帝時代の141年に死ぬと非常に落胆し〔Bury, pg. 528〕 、元老院の許可を得て妻を女神として神殿に祭ったり〔Birley, pg. 77; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 6:7〕、妻を描いた金貨や名を冠した孤児院を建設したりしたと伝えられる〔 。
両者の間には4人の子供が生まれたが、長男と次男には先立たれた〔Birley, pg. 34; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 1:7〕。
* 長男マルクス・アウレリウス・フルウィウス・アントニヌス(西暦138年没);ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る〔Magie, David, ''Historia Augusta'' (1921), Life of Antoninus Pius, Note 6〕
* 次男マルクス・ガレルウス・アウレルウス・アントニヌス(西暦138年没); ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る〔
* 長女アウレリア・ファディラ(135年没); 執政官ルキウス・ラミア・シルウァヌスと結婚、子はなかったと見られる〔Magie, David, ''Historia Augusta'' (1921), Life of Antoninus Pius, Note 7〕
* 次女小ファウスティナ; 両親の甥であるマルクス・アウレリウス従兄弟婚
西暦120年、ハドリアヌス帝時代に執政官に叙任され〔、皇帝の側近としての立場を強めていく。アントニヌスはハドリアヌス帝よりイタリア本土における長官の一人に指名され〔Bowman, pg. 149〕、続いて134年にはアシア総督として活躍し名声を高めた〔Bowman, pg. 149〕。同性愛者で跡継ぎの居なかったハドリアヌス帝は寵愛していた重臣ルキウス・アエリウスを後継者に予定していたと言われている。だがアエリウスが謎の急死を遂げると予定を変更し〔Bury, pg. 517〕、138年2月25日にアントニヌスとその子息を後継者に指名した。しかしアントニヌスも息子に先立たれると、甥であるマルクス・アウレリウスとアエリウスの息子ルキウス・ウェルスを後継者にする事を遺言される〔。
西暦138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没するとアントニヌスは皇帝インペトラル・カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ポンティフェクス・マキシムス(Imperator Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pontifex Maximus)として即位を宣言した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Antoninus Pius 」があります。




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