|
アントニオ・タブッキ(Antonio Tabucchi, 1943年9月23日 - 2012年3月25日)は、イタリアの作家。また学者として、シエナ大学でポルトガル語および文学の教鞭を取り続けていた。 ポルトガルをこよなく愛し、とくに、サウダーデ、虚構、異名の概念を叙述する作家フェルナンド・ペソアに関しては、評論や作品の翻訳を行っている。タブッキが最初にペソアの作品に接したのは、1960年代、フランスのソルボンヌに通っていた時だった。彼はペソアに魅了され、イタリアに戻ると、詩をより良く理解するためにポルトガル語を習いだした。 ペソアの小説やエッセイは、既に日本を含む18カ国で翻訳されていたが、タブッキは妻マリア・ジョゼ・デ・ランカストレと共同でイタリア語に翻訳、またペソアについてのエッセイやコメディを執筆した。 さらに小説では、『インド夜想曲』でフランスのメディシス賞外国小説部門を、『供述によるとペレイラは…』ではカンピエッロ賞とアリステイオン賞を受賞している。 ==前半生== アントニオ・タブッキはピサで生まれ、近郊の村ヴェッキアーノの母方の祖父母の家で育った。 大学時代、母方の叔父の図書館で出会った本の著者の足跡を訪ねて、ヨーロッパ中を旅して回った。パリを訪問中、リヨン駅の近くの書籍売り場で「アルバロ・デ・カンポス」という作家の『煙草屋』という詩集を見付けた(フランス語訳はPierre Hourcade)。カンボスは、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの異名の一つであった。この本との出逢いが、以後20年におよぶ彼の未来を決定づけた。 リスボン訪問により、ファドの町、ひいてはポルトガルという国への愛着が募った。その結果として、1969年、彼は卒業論文のテーマに、「ポルトガルのシュルレアリスム」を選んだ。1970年代になると、彼はイタリア国立ピサ高等師範学校でポルトガル語およびポルトガル文学を専攻し、1973年にはボローニャでその教師となった。 その年、彼は最初の小説『Piazza d'Italia』(出版は1975年、ボンピアーニ社)を発表した。これは、フェデリコ・デ・ロベルト、ジュセッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ、ベッペ・フェノグリオ、最近ではヴィンチェンツォ・コンソーロといった作家が題材とした、トスカナのアナーキストの事件を、敗者の視点から叙述した意欲作だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントニオ・タブッキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|