翻訳と辞書 |
アントニオ・デ・ウジョーア[ちょうおん]
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アントニオ・デ・ウジョーア : ウィキペディア日本語版 | アントニオ・デ・ウジョーア[ちょうおん]
アントニオ・デ・ウジョーア(Antonio de Ulloa、1716年1月2日 - 1795年7月3日)はスペインの軍人、探検家、天文学者、最初のルイジアナの行政長官である。1735年にペルーに渡り、1744年までそこにとどまり、1748年『南米諸王国紀行』を出版した。プラチナ鉱石についての記述があるためプラチナの発見者とされる。 == プロフィール == セビリアに生まれた。1733年海軍に入隊。1735年、ホルヘ・フアン(Jorge Juan y Santacilia)とともにフランス科学アカデミーによる測地遠征隊の一員としてペルーに渡り、子午線弧長の測量に従事した。1736年から1744年まで南米に留まった。その間コロンビアのピント川の近くで、プラチナが発見されたことを帰国後フワンとの共著として出版した「南米諸王国紀行」〔Relacion historica del viage a la America Meridional hecho de orden de S. Mag. para medir algunos grados de meridiano terrestre, y venir por ellos en conocimiento de la verdadera figura, y magnitud de la tierra, con otras varias observaciones astronomicas, y phisicas ; 牛島信明翻訳(1991), 17・18世紀大旅行記叢書8, 岩波書店, ISBN 9784000088084〕に記録した。 ペルーのウアンカベリカ(Huancavelica)の施政官として1758年南米に赴任し、1764年までその地位にあった。 1762年にスペイン領になったルイジアナの初代行政長官として、1766年3月5日ニューオーリンズに赴任したが、フランス系住民はスペインの支配を認めず反乱をおこしたため、ウジョーアはルイジアナから逃げねばならなかった。その後は海軍の軍人を勤めた。スペイン南部のカディスのレオン島で死んだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントニオ・デ・ウジョーア」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|