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"キャノンボール" トニー・パリシ("Cannonball" Tony Parisi、本名:Antonio Pugliese、1941年 - 2000年8月19日)は、イタリア・カラブリア州コゼンツァ出身のプロレスラー。 イタリア系移民の多いニューヨークのWWWF(WWF)や移住先のカナダを主戦場に、ベビーフェイスのタッグマッチ・プレイヤーとして活躍した。 WWEで活動していたジョニー・パリシ(ジョニー・スウィンガー)は、彼の大甥にあたる。 == 来歴 == 少年期に家族でイタリアからカナダに移住、オンタリオ州ナイアガラフォールズのYMCAでレスリングを学び、1961年にデトロイト地区にてプロデビュー。以降、本名のアントニオ・プリエーゼ(日本での表記はアントニオ・プグリシー)をリングネームに、同地区で邂逅したイタリア系カナダ人ジノ・ブリットとのタッグチームでテネシーのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)など各地を転戦した〔。 その後、ブルーノ・サンマルチノの従兄弟という触れ込みでWWWFに登場〔。1966年2月21日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、ジョニー・バレンタインと組んでビル・ミラー&ダン・ミラーからUSタッグ王座を奪取した(同王座には同年12月8日にも、スパイロス・アリオンとのコンビでバロン・シクルナ&スマッシャー・スローンを破って戴冠している)。 1967年はロサンゼルスのWWAに参戦し、ペドロ・モラレスのパートナーとなって12月にフレッド・ブラッシー&バディ・オースチンからWWA世界タッグ王座を奪取。1968年からはオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征、マリオ・ミラノやドン・レオ・ジョナサンと組んでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードの凶悪コンビとIWA世界タッグ王座を争った。 1970年代に入り、WWWFでリングネームをトニー・パリシと改名。1972年はニューヨーク州バッファローのNWFに出場し、オーストラリアでもタッグを組んでいたドミニク・デヌーチとのイタリア人コンビで活躍した。ホームタウンのオンタリオでは、1974年7月21日にトロントにてジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。同年12月28日にはフロリダにてデヌーチと組み、トール・タナカ&ディック・スレーターからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取した。 1975年下期、WWWFでルイ・セルダンこと旧友ジノ・ブリットとのコンビを再結成。同年11月8日、フィラデルフィアにてザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)を破りWWWF世界タッグ王座を獲得する。以後、イワン・コロフ&スーパースター・ビリー・グラハムなどのチームを相手に防衛を続け、1976年5月11日にジ・エクスキューショナーズ(キラー・コワルスキー&ビッグ・ジョン・スタッド)に敗れるまで戴冠した〔〔。 その後もWWWF(WWF)およびカナダの提携プロモーションを主戦場に、1970年代末から1980年代初頭にかけてはトロントのメープル・リーフ・レスリングにて、ザ・デストロイヤー、レオ・バーク、クルト・フォン・ヘスなどと対戦。1982年には WWFインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した他、ジノ・ブリットが主宰していたモントリオールのインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)に参戦、ブリットやディノ・ブラボーと組み、セーラー・ホワイト、ミシェル・デュボア、ビリー・ロビンソン、パット・パターソン、フレンチ・マーチンらのチームとカナディアン・インターナショナル・タッグ王座を争った。 1984年、WWFがビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下のもと全米侵攻を開始すると、かつて主戦場としていたトロントやバッファローなどのハウス・ショーに中堅ベビーフェイスのポジションで出場。1985年11月にはオーストラリアへのツアーにも参加し、タイガー・チャン・リーやレス・ソントンなどヒール陣営のジョバーから勝利を収めた。 1986年のセミリタイア後はナイアガラフォールズにてレストランを開業する一方、オンタリオ地区にて自主興行を主催していた〔〔。2000年8月19日、心臓発作のため死去〔〔。58歳没。 日本には1967年7月、アントニオ・プグリシーの呼称で日本プロレスに初来日。同名義で1973年3月に全日本プロレスへ再来日し、チャンピオン・カーニバルの第1回大会に参加した(トーナメント1回戦でヒロ・マツダに敗退)。1983年3月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスに参戦、同時来日したアドリアン・アドニス&ボブ・オートン・ジュニアと組んでメインイベントの6人タッグマッチにも出場した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トニー・パリシ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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