|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 猪 : [いのしし] 【名詞】 1. wild boar ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber ・ 対 : [つい] 【名詞】 1. pair 2. couple 3. set
アントニオ猪木対モハメド・アリ(アントニオいのきたいモハメド・アリ)は1976年(昭和51年)6月26日に行われた、新日本プロレスの企画した「格闘技世界一決定戦」の内の一試合。当時の日本のプロレス界のエースであるアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリによる世紀の一戦と騒がれた。試合会場は日本武道館。 == 試合の実現 == 1975年(昭和50年)3月に、当時のWBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオンだったアリは史上初のスポーツ界出身自民党国会議員で日本レスリング協会会長八田一朗に向かって「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」とジョークを言った。アリは「拳でも口でも戦う男」として有名で、当然この発言もアリ独自のリップサービスであることは世間も承知だった。猪木は「100万ドルに900万ドルを足して1,000万ドル(当時のレートで30億円)の賞金を出す。試合形式はベアナックル(素手)で殴り合い。日時、場所は任せる」といった挑戦状をアリ側に送ったが、マスコミも世界のアリとプロレスラーが戦うなど実現は到底不可能と思っており、当初は冷めた反応だった。しかし、この猪木の挑戦状に反応したアリは6月9日、マレーシアでのジョー・バグナーとの防衛戦前に東京に立ち寄り、会見を開いた。会見でアリは「猪木なんてレスラーは名前すら知らなかったが相手になる。レスリングで勝負してやる」と発言、これにより半信半疑だったマスコミも一気に火がつき、新聞でも大きく取り上げられることとなった。 しかし、ドン・キングを含めたアリのマネージャー群が、一連のアリの発言を撤回し、全てを白紙に戻してしまった。世界的に有名なアリと知名度の低い日本のレスラーを戦わせるということなど、そう簡単に許可できるものではなかった。これに反発した猪木は、アリが逃げられないように外堀を埋めていった。10月に入るとアメリカ、ヨーロッパのマスコミに対してアリ戦のアピール記事と写真を送りつけた。これが反響を呼び、オランダの柔道世界一であったウィレム・ルスカが「アリと戦う前に俺と戦え」と猪木に挑戦状を送りつけ、1976年(昭和51年)2月6日に猪木とルスカが対戦し、20分56秒で猪木がTKO勝ちをした。 これだけ反響が大きくなるとアリ側も猪木の挑戦を無視できなくなり、ニューヨーク、ロサンゼルスにおいて猪木と極秘会談を行った。試合形式(15ラウンド制)、ギャラ、ルール問題が難航したが、ある程度まで交渉が進んで行き、1976年(昭和51年)3月25日にはニューヨークで調印式を行うこととなった。猪木は当時の妻倍賞美津子を連れ、袴姿で調印式に登場した。ギャラの問題は、1,000万ドルを譲らないアリ側と、600万ドルを提示する猪木側で折り合いがつかず、調印式当日まで揉めた。しかし最後はアリ本人が「600万ドルは飲めないが、600万ドル以上ならOKだ」と言い、結局610万ドルで双方とも合意に達した。この調印式でアリは、猪木の突き出た顎を指して「まるでペリカンのくちばしだ。お前のそのくちばし(顎)を粉々に砕いてやる」と挑発的な言葉を浴びせた。これに対して猪木は全く顔色を変えず、「私の顎は確かにペリカンのように長いが、鉄のように鍛え上げられている」と返答。更に「日本語をひとつ教えてあげよう。アリとは日本で虫けらを指す言葉だ」と言い返したところ、アリは激高し「ペリカン野郎め。今すぐ叩きのめしてやるぞ」と大声で叫んだ。この「ペリカン野郎」発言はアリの語録、及び猪木のニックネームのひとつとして後々語り継がれる名文句となった。 アリのギャラはNET、東京スポーツ社等、各方面から少しずつ借金してアリに支払われる予定であった。試合前に180万ドル、試合後に120万ドル、クローズドサーキットの収入から310万ドル、合計610万ドルがアリのギャラとして予定された。ただし、実際に猪木側がアリ側に支払った金額は180万ドルに留まる。 もともとプロレスファンであるアリは、来日前の1976年6月10日、当時のビジネスの拠点だったシカゴでのAWAの興行において、猪木戦のプロモーションとしてバディ・ウォルフらを相手にミックスド・マッチを行ったこともあり〔『Gスピリッツ Vol.12』P14-15(2009年、辰巳出版、ISBN 4777806847)〕、プロレスというエンタテインメントの特性などは詳しく理解していたが、両陣営の話が互いに一方的な条件を出し合い譲ることなく、事前交渉が決裂した形になったともされる。当時レフェリー兼外国人プロレスラーの世話係の担当であったミスター高橋は後に自著でアリを崇高な人格者と表現した上で、その取り巻きの態度の悪さに怒りを露わにしていた。高橋はそれらの件について猪木も腹に据えかねる思いであったろうと推察している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントニオ猪木対モハメド・アリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|