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アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル(Antoine Perrenot de Granvelle, 1517年8月20日 - 1586年9月21日)は、フランスの聖職者、枢機卿。スペイン・ハプスブルク家に仕え、当時のヨーロッパ諸国政治家の中でも有力者であった。プロテスタント弾圧をネーデルラントで行ったことが知られる。また、高名な美術収集家でもあり、ティツィアーノやアントニス・モルら数多くの芸術家たちの後援を行った。スペイン語名アントニオ・デ・グランベラ(Antonio Perrenot de Granvela)。 == 生涯 == グランヴェルは、当時ブルゴーニュ自由伯領として神聖ローマ帝国領であったフランシュ=コンテのブザンソンで生まれた。父ニコラ(1484年 - 1550年)はカール5世の大臣を務めた。ニコラはネーデルラントにおいて影響力を持つ地位にあり、1530年から亡くなるまで、ドイツにおける皇帝の最も信頼する助言者の一人となっていた。パドヴァで法学を、ルーヴァンで神学を学んだアントワーヌは、1540年に23歳でアラス司教座で地位を得た。1561年にはメヘレン大司教、1584年にはブザンソン大司教となった トリエント公会議へ派遣されるなど、聖職者としての有能さからカール5世の片腕と目されるようになったが、次第に外交に軸足を移し、多くの困難でもろい和平工作に携わるようになった。1550年、父の後を継いで大臣職に就任する。ザクセン選帝侯モーリッツとの戦いではカールとともに戦地に赴くためインスブルックから同行し、のちにパッサウの和議を結んだ。 その後グランヴェルは、イングランド女王メアリー1世と、カールの長子フェリペ(のちのフェリペ2世)との結婚交渉を指揮した。1555年にカール5世が一線から退くと、彼はネーデルラント政策に当たらされた。カトー・カンブレジ条約をスペイン代表団の一人としてお膳立てした後、ネーデルラント総督マルゲリータ・ディ・パルマの宰相に任命された。彼はその後5年間、プロテスタント勢力抑圧に力を注いだ。1560年にメヘレン大司教座を立て、1561年には自身が枢機卿となった。しかし宗教対立の激化から、1564年にはスペインへ召喚され、任務を解かれてフランシュ=コンテへ勇退した。 グランヴェラは1565年にローマへ向かった他は、その後6年間沈黙を守った。しかし1570年、フェリペに呼び戻され、別の任務を受けてローマへ赴いた。そこで彼はオスマン帝国に対抗する教皇庁、ヴェネツィア共和国、スペイン帝国との間の同盟関係樹立に従事した。これはレパントの海戦に非常に役立つものであった。1575年、フェリペ2世によってマドリードへ呼ばれ、イタリア問題の担当大臣に任命された。彼は晩年まで、1584年のスペイン=ポルトガルの同君連合樹立、スペイン王女カタリーナとサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の結婚でフランスに釘を刺すといった外交成果を挙げていった。1585年、ブザンソン大司教となったが、肺病に冒され、1586年にマドリードで没した。遺体は故郷ブザンソンへ運ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントワーヌ・ド・グランヴェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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