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アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(フランス語:Antoine-Laurent de Lavoisier 、1743年8月26日 - 1794年5月8日)は、フランス王国パリ出身の化学者、貴族。質量保存の法則を発見、酸素の命名、フロギストン説を打破したことから「近代化学の父」と称される〔ドイツの思想家フリードリヒ・エンゲルスはその著書『自然の弁証法』で、「「近代化学の父」と呼ぶ人物にはジョン・ドルトンが相応しい」としている。〕〔ラボアジエとは - コトバンク、2013年3月27日閲覧。〕。 1774年に体積と重量を精密にはかる定量実験を行い、化学反応の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を発見。また、ドイツの化学者、医師のゲオルク・シュタールが提唱し当時支配的であった、「燃焼は一種の分解現象でありフロギストンが飛び出すことで熱や炎が発生するとする説(フロギストン説)」を退け、1774年に燃焼を「酸素との結合」として説明した最初の人物で、1779年に酸素を「オキシジェーヌ(''oxygène'')」と命名した。ただし、これは酸と酸素とを混同したための命名であった。 しばしば「酸素の発見者」と言及されるが、酸素自体の最初の発見者は、イギリスの医者ジョン・メーヨーが血液中より酸素を発見していたが、当時は受け入れられず、その後1775年3月にイギリスの自然哲学者、教育者、神学者のジョゼフ・プリーストリーが再び発見し、プリーストリーに優先権があるため、厳密な表現ではない〔; 。進展中だった科学革命の中でプリーストリーの他にスウェーデンの化学者、薬学者のカール・ヴィルヘルム・シェーレが個別に酸素を発見しているため、正確に特定することは困難だが、結果としてラヴォアジエが最初に酸素を「酸素(''oxygène'')」と命名したことに変わりはない。またアメリカの科学史家の トーマス・クーンは『科学革命の構造』の中でパラダイムシフトの概念で説明しようとした。〕。なおプリーストリーは酸素の発見論文を1775年に王立協会に提出しているため、化学史的に酸素の発見者とされる人物はプリーストリーである。 また、化学的には誤りではあったが物体の温度変化を「カロリック」によって引き起こされるものだとし、これを体系づけてカロリック説を提唱した。詳しくはカロリック説を参考にされたい。 == 生涯 == === 出生から学生時代 === 1743年8月26日、フランス王国パリに裕福な弁護士である父の元に生まれるが、ラヴォアジエが5歳の頃に母を失い、莫大な遺産を引きついだ。そして叔母の元で育てられた。 1754年より1761年までで化学、植物学、天文学、数学を学ぶ。その後は父の職を継ぐべく法律家を目指した。 1761年からはパリ大学法学部に進学して1763年に学士号を修得。翌年1764年には弁護士試験に合格して高等法院法学士となるがパリ大学在学中に同国出身の天文学者であるニコラ・ルイ・ド・ラカーユ、博物学者のベルナール・ド・ジュシューからは植物学を学び、以前からラヴォアジエ家と親交があった博物学者、鉱物学者のからは地質学と鉱物学を、化学者のからは化学を学んで自然科学に興味を持つようになる。また、法学部に在籍しているにも関わらず化学の講義を聴講したり、喜望峰に滞在して天文学の研究をしたり、ゲタールと共にフランスの地質図作成に協力した。 その後もゲタールとアルザス=ロレーヌなどを旅行して各地を回った際、各地方の石膏に関心を示して比較研究をしたことがラヴォアジエの最初の研究であった。この石膏に関する研究は後にラヴォアジエの特記すべき定量実験の兆しであり、推測ではない確実な実験が重視されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントワーヌ・ラヴォアジエ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Antoine Lavoisier 」があります。 スポンサード リンク
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